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こんど読むときは きっとまた違うわたし

いちはらし:

気づけば4月も残すところ1週間をきりましたね。いつものことですが,月の終わりには「嘘でしょう?」と謎の焦りを覚えます。

先日,散歩がてら外に出たら,いつのまにか街の樹々に柔らかそうな若葉がきらきらと茂る季節がやってきていました。それでも,風には少し冷気が残っていて,油断して羽織ってきた薄手の上着の前をかき合わせ「ちょっと春〜!ちゃんと仕事して! 」と,ひとりキレながら帰宅しました。

そんな季節感にあって「8月」という表記を目にしますと,

それってつまり,夏ってことですよね……? 夏……遠いな……と第三者はうかつにも思ってしまうのですが,「大規模イベント」の企画・運営の皆様は,きっとじりじりと追い立てられていることと拝察いたします。

なにやら,わたしの務める会社も関連イベントへの参加に名乗りをあげているとか,いないとか。微力ながら,イベントを盛り上げるお手伝いができればと願っています。楽しみですね,夏。

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『文藝 2020 夏』 買いました。読みました。源氏愛に溢れた特集,とってもよかったです。

たられば氏の寄稿文で,角田光代氏の書評を引用しつつ「読む者の精神的経験もまた投影する力」が,源氏物語にはある,と述べられていた,そのあたりで ピキン と脳に針が刺さった気がして,いちはらさんからいただいたお手紙を読み返し,

「人生のステージによって付き合う本を変える」ということ。これを、あるいはもう少し希望のあるフレーズに編曲できる、かもしれない。そういうヒントが書かれていると、「今のぼく」は思った。

ここから脳に刺さった針をたどったら,こちらの本の

(↑光文社古典新訳文庫をいちから揃えたくなる,危険な一冊です)

著者の駒井氏が雑誌『週刊宝石』編集部でキャリアを積んでいた頃,とあるきっかけから大学時代に読了した古典作品を再び手にしたときのエピソードに再会しました。

ここで駒井氏は,その物語の主人公が抱える苦しみは,大学生であった自分には遠く,他人事でしかなかった。けれど,ある程度の人生経験を積んで読み直してみると,主人公は「隣人であり,その苦悩は自身の苦悩」であった……と語っています。


ああそうか,本に限らず「作品」には出会い直すことが許されているんだ。いつかの「無理だったあの本」にも等しく,その可能性は開かれているのかもしれない。


今回のお手紙をいただいてようやく,そんな「希望」の姿が鮮明になった思いがします。いちはらさんのおかげです。ありがとうございます。

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針といえば,『文芸 2020 夏』で出会った,岸正彦先生の連載が突き刺さって抜けません。ここ数年,わたしが無意識に追いかけている文章だったからだと思います。

岸先生が,ご自身が愛する/愛した場所について,繰り返し述懐されるメッセージ。

「それはここにある。それはどこにもない。」

我が身を振り返ってみれば,ついこの間まで「みかん」と言えなくて「みかむ」と言っていた甥っ子。「パトカー」を「タポカー」と言い間違えていたあの子は,ここにいる。けど,もうどこにもいない。

そんなふうに何かがまるで変わっていくこと,変わってしまうことが,わたしはどうしようもなく悲しかったのです。

でも。

たとえばわたしがこれまでに感じた,そしていつか経験する,大きな悲しみや不安,苦しみ,怒りもまた,きっと形は変わっていく。「ずぅっとそのまま」であり続けることはないのだ。

きっかけは忘れてしまいましたが,そう思える瞬間が,ちかごろ増えたようにも思います。

それって 喉元過ぎれば熱さを忘れる みたいなこと? と聞かれれば「そういうことじゃないんだけど……」と言いたいのですが,うまく説明できる気はしていません。


追伸:「脳旅」の再開も,密やかに楽しみにお待ちします。

(2020.4.24 西野→市原)