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求ム : 理不尽の 「理」 を 知る人
一至さま:
フォントいじりのセンスがないので使用を避けていたのですが,前回のお手紙冒頭は,あのまま続けると冥界の賢者が七つの鍵を持ってきそうな気配がしたので,太字+センタリングで強引に閉じてみた次第です。
おや,気づけばそろそろハロウィンですね。
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市原さんは9月もさまざまにお忙しかったようで,たいへんお疲れ様でした。
どこかで褒められるとどこかで悪口言われる現象,そんな絶妙なバランスいらないのに,ほんと人生ですね……と同意しつつ,フォロワー数 10万人のアカウントのエゴサ結果とか微塵も想像つきません。こわや,こわや。
・・・
市原さんからのお手紙を読み終えたとき, ”No Reason”というフレーズがふと浮かび,これなんだっけ? と調べたらコカ・コーラのキャッチコピー(2001〜2003年)でした。
「理由なんてない! 私はとにかくこれが好き!」 と言い切るまっすぐな精神の輝き,有無を言わせぬ心の強さがよく表現された,秀逸なコピーだなあとしげしげと眺めていました。
でも「”No Reason”で構わない! ”No Reason” 上等!」と無邪気に流せるのは,その事象が本人にとってポジティブなときだけかもしれないな……。自分の記憶に照らしては,そう思ったりするのです。
祖母(たびたびの登場ですみません)が亡くなって2か月ほどがすぎた日の晩,普段どおりお風呂に入り,鼻歌まじりに髪を洗っていたときのこと。さて泡をすすごうと蛇口をひねってシャワーを出した瞬間。「祖母はもういないのだ」という強烈な現実感と大きな悲しみが,なんの脈絡もなく,「強襲」ともいうべき勢いで訪れました。
不意の悲しみに流されるまま,しゃくりあげるわたしの口からこぼれたのは「……どうして しんじゃったの?」という問いかけでした。
死に至る病をえて,亡くなった。
もちろんわかっています。それでも,自分で制御できない悲しみの大きさに翻弄されるあいだじゅう「どうして?」と問わずにはいられなかった。投げるべき相手もわからないまま発せられたこの孤独な問いは,今も実家の浴室を漂っている気がします。
最近思う。ぼくら科学の子は、howに対しての答えばかり用意するようになってしまった。
そうかもしれません。
サイエンスはさまざまなことを解き明かしてくれます。結果,日々の生活での他愛のない物事から,専門性の高い領域に関することまで,「どうして?」と問えば「科学の子」がどこかに「答え」を用意してくれる。
そしてわたしたちはそのことに,だいぶ慣れてしまった。
だから,「理不尽」な出来事に直面したときに浮かんだ「どうして?」という問いは,その性質--"why" か "how" か--は精査されることなく,これまで答えを示してくれた人たちに向け投げられます。
いつものように教えてはくださいませんか。
どうして わたしが こんなことに?
そういえば「理不尽」って「理にかわなないこと」ですよね。
誰かがたどりついた「ことわり」が 誰かの”why”に答えてくれるといいなあと願いつつ,でもそう願うことは「怠慢」かしらと,なぜか少しの罪悪感を覚えてもいます。
(2019.10.24 PEPSI派・西野→市原)