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しっているか ふゆのすいかも うまいらしいぞ

眠りの小五郎さま:

コナンくんネタは「白旗だ」って言ってんでしょうが。さ,そこから離れてください。離れなさいっての。

……とはいえ,特定の登場人物を「天使」と称して愛でるムーブ,けっこう好きです(ザッキーは大天使,たいへんよくわかります)。

「天使」といえば,遥か昔に天使が主人公の作品が漫画雑誌『WINGS』で連載されていたような……タイトルは……そう『アーシa 

地獄への扉が開く音がしたのでこの話やめます。

・・・

9月は月初から体調不調が続いたところに担当本の校了も重なり,もうしっちゃかめっちゃかな1か月でした。病中は食欲は落ち,回復期は鼻づまりで味覚ゼロになるわけで,食いしん坊的に「ほんっっと,なーんも楽しくないわ……」と,ぶぅたれっぱなしの1か月でもありました。市原さんはどんな9月を過ごされましたか。

さて。前回のお手紙,悲しみが摂取されたのち「要素」に分解・吸収されて染み込んでいく経路の描写,美しいなあ……とウットリ拝読しました。

それだけに,

あるいはその一部が感情の免疫系を惹起して、まるで弱毒化ワクチンのように作用し、ぼくにある種の悲しみに対する耐性をもたらすなんてことも、あるかもしれない。
けれどワクチンってそんなに簡単に作れるものではない。

そうか,そうだよなあ……と噛みしめるように納得しました。ちょっとずつ悲しみを摂取していったなら,いつか激しい症状がでないよう,せめて弱まるようにならないかな……と,つらいことはできるだけ避けたい小心者のわたしは思っていたのです。でも,そもそも耐性の機序が不明な状況にあって,そうムシのいい成果が得られる可能性は,確かに低そうです。

そういえば「トシ取ったのか,さいきん涙もろくって……」ってよくききます。感情の制御は加齢によりあまくなるという通説もありますが,たとえば加齢とともに蓄積された悲しみによって,ニュースの見出しレベルのちょっとした刺激でも強い悲しみが容易に想起される(「感作」が起こる)……みたいな経路のほうが,なんだか「ありそうな話」にも思えてきました。

耐性をつけるのは難しい,感作が起こるのもいやだ。じゃあ「いつか出くわすつらさ」にどう対処したらいいのだろう……そんなことを考えていたら,ふと思い当たったことがあります。


30年ほど前の冬,祖母が大病を患い入院しました。治る見込みはなく死が近いことは,当時の通例どおり家族にだけ知らされました。

食欲がほとんどなくなった祖母に,わたしの母が何か食べたいものはないかと尋ねると,祖母は「西瓜」といいます。今でこそデパートなどで割と年中みかけますが,当時は入手困難な「季節はずれの西瓜」。それを母は必死に探し,買い求めました。

あぁ,どうにか手に入った,ようやく食べてもらえる……と出した西瓜,祖母はひとくち食べて「……もういらない」とフォークを置きました。


いまでも西瓜をみると,冬の西瓜と遠くない別れを前に黙り込む祖母と母の姿が鮮やかに思い浮かび,胸が締め付けられます。

「よほど食欲が落ちていたのかな,薬で味覚が変化していたのかもしれない,それかおいしくない西瓜にあたったか……あるいは自身の今後がわからないことへの不安や苛立ちがそうさせた可能性も……」

……そんなふうに思い出を分析して「ただしい」「わるい」「しかたない」と整理して仕舞い直したなら,この悲しみも和らぐ気がします。でも,そしたらこの思い出そのものが薄くなって,そのうち思い出すこともなくなってしまうと確信しているのは,きっとそうして消えていった思い出がいくつもあるからなのでしょう。だからわたしは今もこの「西瓜の記憶」に手をつけずにいます。

「つらいことはできるだけ避けたい」と願いながら,悲しい思い出を手放そうとしない,この一見矛盾する心の動きに,何かヒントがあるのかもという気がしているのです。

(2019.10.9 10月は美味しく過ごしたい西野→市原)