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過ぎ行く感情を呆然と見送るしかできない
いちはらし
5月ですね。爽やかな晴天が続く東京です。
雨が降った翌日の,全部が新品みたいにピカピカひかる,よく晴れた朝。まるで世界が「リセット」されたような心持ちになる日があるのも,5月の素晴らしいところですねえ。
日が暮れたあとも開け放したままの窓からときおり入ってくる柔らかい風を腕に受けながら,あぁ,もう,ずっと5月でいいです……と眠りについた,その日の晩。
かすかな,でも耳にした瞬間に不快指数が跳ね上がる音に飛び起きました。そして思い出したのです。そう,5月の東京は,蚊が出る,ということを……。
気分的には,一足飛びに,夏,到来です(かゆい)。
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接続しきらない。接続しそうでしない。二人の指先が互いの熱を感じられるくらいには近づいているけれどふれあうことはない。
触れそうで触れない距離感。山崎まさよし氏の『中華料理』にそんな歌詞があったっけ……懐かしい……と音源を引っ張り出し,ウキウキと久しぶりに聴いてみたのですが,
「テーブルをはさんだ ちょっと遠い二人より 触れる肩先の 緊張感がいい」
接続してた。肩先,めっちゃ触れ合ってた。
うぅむ。山崎まさよし氏の作品,どの曲も大好きで,毎日のように口ずさんでいたのになぁ。記憶ばかりか,当時の自分が抱えていた熱量さえ疑わしく思えてきてしまって,少ししょんぼりしています。
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『園芸家12カ月』の……というか「Googleによる“あいまい検索”」のエピソードを拝読している際,頭に浮かんだのは,わたしが高校生の頃のこと。誰かが「写ルンです」で撮った写真を複製してほしいとき「その写真,私にも焼きまわして」という言い方が周囲で流行って(?)いました。
どうにも気になって「それ,正しくは “焼き増しして” じゃない?」と空気も読まずに放り込んだわたしに,同級生はこう返しました「あのね,そういうこと言ってると,嫌われるよ?」(いやもうごもっともです,みんなわかって使ってたんですよね,わたしが悪いイタタタ)
多少の言い間違いを修正されるにしても,相手がGoogleなら腹も立たないよね……と思いましたけど,『もしかして:〇〇』と表示されるのをみると,こめかみあたりが チリッ とするような気もします。
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読了後,たっぷり2週間は作中の世界観から戻ってこられないことがわかっているので,「よし……」と覚悟を決めてから読み返す小説があります(このとき感じているのは意気込みや期待というよりも,「そうしなければ」という謎の義務感,あるいは「そうさせられている」という類いの,やや後ろ向きな感覚だったりします)。
読み返すたびに固まってしまうフレーズが何箇所かあって,下はその一つです。
「私はこのひとが大好きだった。いまはもう上手く思い出せないが、大好きだったという事実だけはよく憶えている。」
初めてここに行き合ったときの衝撃を例える言葉が,未だに見つかりません。
今,このフレーズを前に(ちょっとフリーズしつつ)ふわふわと考えるのは,出来事と感情って,記憶される場所というか,想起する際に接続されるネットワークが,きっと微妙に異なるんだろうなあということです。……というか,もしかして感情はそもそも「保存されるものではない」のでしょうか。
いずれにしても,事象と感情の経路がそんなふうに「別立て」になっていることには,進化のうえでどんな意味があったのかしら……。ほんのりとした焦燥感を覚えながら,そう不思議に思うのです。
(2020.5.14 西野→市原)