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地上から音無の雨を想う

いちはらし


少し間があきました。お元気でおすごしでしょうか。

気づけば関東は梅雨入り(宣言はまだですが)。じめじめーっとしております。

先日などは,大量の霧雨を浴び湿って色調の暗くなったブロック塀の一面に,大小のカタツムリが散り散りにブワッと群れているのを見ました。

それにしても,なぜにブロック塀に,あんなにたくさん……? と気になって調べたところ「都市部のカタツムリは必要なカルシウムをコンクリートから摂取している」のだとか。

「こ,コンクリから カルシウムを?? いきるってたいへん……」と思ったものの,もしかしたらカタツムリにとって,カルシウム摂取に “ほどよい” 岩石をいちから探しはじめるより,ブロック塀のほうが好立地・好条件だったりして。と,わたしにやさしい解釈をしています。

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このお手紙を書いている今も,外からは雨の音に混じって,濡れた路面を走る車の音が聞こえてきます。

雨音といえば,前に「幼少期から今まで超高層マンションで育った」という,少し年上の女性とお話しをしたときのことを思い出しました。

何度か‎顔を合わせたことのある,文字どおり「顔見知り」程度のお付き合いだったその人は,ざぁざぁと降る雨を眺めながら「物心つくまで,雨は音もなく,ただ降るものだと思っていた」というのです。

聞けば,なるほど,住まいに雨音を奏でる屋根はなく,道路は遥か遠く下。

窓に叩きつけるような暴風雨ならいざしらず,普通の雨にとっての ”音源” 的要素が超高層マンションには足りません。


(雨音が聞こえない上空で育った人……)

そんなふうに,年上の彼女と自分の生まれ育った環境の違いになんだか気後れするうち,次第に疎遠になってしまいました。

でも,今にして思いますと,たとえば彼女が小さい頃から見てきた空の色・雲のテクスチャは,もしかしたらわたしが知るものより,ずっとずっと情報量が多いのではないか。彼女の世界にもっと触れることで,わたしの世界の解像度は高くなったかもしれない。

あぁ,もっと仲良くなって話をきいておけばよかった。おかしな劣等感に負けて,ずいぶんともったいないことをした,そんな自分本位な後悔をしています。

***

この往復書簡で世界の「解像度」をあげる/さげることがなんどか話題にでていますよね。それにしても,なぜわたしはその解像度をいじろうとしているのかしら……と自分でも不思議に思うことはあります。

たとえばそれってなんの役に立つの? と問われたら……わたしの心のセーフィティネット,その網目を細かく,強くするため,と答えるでしょうか。


思考をとめて,全体をボヤボヤッと煙に巻いて,世界を薄目でやりすごす方法を身につけること。

その一方で

カタツムリがコンクリートからカルシウムを摂取していること,音のしない雨が降る場所,道端に咲く花の名前やその由来と生態,記憶の貯蔵と想起のしくみ,腸管で構造をとる粘液……

生きるために必要な知識ではないけれど,知ったことで,わたしの心はたしかに日々ほんのりと救われているように思います。


そう考えると,「痛み」とは,解像度をいじる方法ではなかなかうまく立ち向かえない強敵である……と,抜いたばかりの親不知の痛みに難渋している今日この頃なのでした。


おや,外の雨は,そろそろ一休みのようです。


(2021.5.21 西野→市原)