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ひとかけら

イッチーさん:

「いんよう!」リスナーの方々には馴染みのあるお名前でのスタートとなりました(時間をみつけては ちょこちょこ拝聴しています。楽しい番組をありがとうございます)。

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『Bar レモン・ハート』は本当に素敵な漫画ですよねえ。最後に読んでから結構たつのに,今も思い出すエピソードがたくさんあります。なのに,ドラマは未見なのです……動く松っちゃん,見てみたい。DVDボックス買おうかしら……。

にしても,この作品は何度も読んだはずで,お話はしっかり覚えているのに,登場するお酒の知識は記憶の海に溶けてしまいました。何かの折に「あれっこのお酒ってなんだっけ? 」などと,愛読者である弟にうっかり質問しては「『レモン・ハート』に書いてあったやろがい!」と怒られます。関西弁で。東北人なのに。

同じ現象が『ギャラリー・フェイク』でも生じており,やっぱり弟に怒られます。だめな姉ちゃんで すまんやで。

ディテールまで覚えている人が羨ましくて,覚えていない自分が残念です。

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むかし実家で飼っていた猫の写真をぱらぱらと眺めていたとき,ふと「本当の死は,その人のことを知る人が1人もいなくなった時に訪れる」という話を思い出しました。

たとえばわたしの家族みんなが忘れてしまったら,この子は「いなかった」のと同じことになってしまうんだろうか……そう思った途端,得体の知れない焦燥感に駆られたわたしは,手持ちのベストショットを1枚,ツイッターにあげようと準備をはじめます。だって,いちどネットにあげた情報は,消したくとも「完璧には消せない」のでしょう? それならば。

だいじょうぶだよ。ここにおいておくからね。だいじょうぶだよ。

写真を選びながら,ずっと心の中でそう呟いていたように思います。

そうして選んだ写真を添えて「ツイート」ボタンをクリックしたとき,夜の川に灯籠を流したような感覚がわたしの手に残りました。


それ以来,あの画像データが,たとえ2度と1つの像を結ばないほど断片化されたとしても,もう誰ともどことも繋がることはないとしても,このネットの海の,どこかにあの子のかけらが「ある」。

そう思えたとき,わたしは妙な安堵感に包まれます。


インターネットと脳の有り様は似通っている,という話をたまに目にします(というか,市原さんが最近どこかでそのようにおっしゃっていたような……?)。とするなら,サルベージ不可能な,もう発火することはない場所。だけどかけらは確かにそこに埋まっている……そんなことが,脳の中でも起こっている可能性もあるでしょうか。

……そうだったらいいなあ,と,少し祈るような気持ちで思います。


探してももうない。インターネットのシナプス接続はこの10年で改組されてしまい、かつて持続的に発火していた領域は埋没してしまった。

市原さんが書かれた小説も,どこかに「ある」でしょうか。インターネットのどこかに。そして,いつかその作品に出会えた,幸運な誰かの脳のどこかに。

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気づけば年の瀬ですね。

ちょっと気が早いですが,本年も大変お世話になりました。
どうぞよいお年をお迎えください。

(2019.12.19 西野→市原)