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無常の先を行く人に

市原さん

”断端”

"だんたん" と入力しても変換されないので,あれっ? と確認してみましたけど,そういえばいわゆる“専門用語”なのでしたね,この語。

手持ちのアプリ版『新明解』『大辞林』にも収載されておらず,ちょっとびっくりしています。

断端と聞いて思い出すのは,4,5年前,某学会のシンポジウムだったでしょうか。市原さんが演者のおひとりとして登壇されていたのを拝聴したときのこと。

ご講演の,最後のほう。前後の文脈は忘れてしまいましたが,

「ぼくはですねえ,"断端は negative! わたし positive!" みたいな陽キャが許せないんですよ…!!」

と,それはそれは力強く仰っていたことだけは今も鮮明に覚えています。

その後,このあたりのお気持ちに変化があったかどうか,個人的には気になるところです。

***

前回いただいたおてがみの

今の私の脳はあくまで、変成しながらたどり着いた過程の断端にいるだけで、「私が私である理由」というのは、今の私の脳だけを見てもわからないものです。

私は断端だけにはいない
Shin Ichihara/Dr. Yandel


ここを拝読して,数年前に読んだ…あれは,仏教漫画(というジャンルがあるのかもわからないですが)ということでいいのだろうか,『お慕い申し上げます』という作品が浮かんできました。

本作の最終巻で,登場人物のひとりが

「わたしは無常の先端を走っているんだ」と語るシーンが出てきます。

無常。
万物は変化する,という仏の教えでしたでしょうか。

卑近な例で恐縮ですが,かつて自分の世界の中心にあった歌い手,あるいはその作品たちの”重要度”は,わたしのなかでずっと,一生,揺るぎないものであり続けると,当時は疑いもしませんでした。

なのに気づけば,わたしのなかで音楽そのものが占める割合が,さほど大きくなくなっている。

このうえなく大事だと信じていることも,不変ではない。
それはちょっと,なんだか哀しいこと,だよなあ……と感じつつ。

それでも,いつかたとえば深い悲しみのなかで生きていくこと,あるいは何かを恨み妬み続けること,そこにこそ「自分がある」と確信することがあったとしても,「不変なものなどない」のだとしたら。それはある種の救い・福音のようにもみえてきます。

その一方で,個人のありようも「変化しつづける」ものだとしたら,”その人らしさ”などというものは,なんとも寄る辺ない,はかないものではないか……ほんとうに? と,ときおりもやもやしていたわけなのですが。

アイデンティティとはおそらく屈曲しながら歩んできた道のりすべてのことなのです。

『私は断端だけにはいない』
Shin Ichihara/Dr. Yandel

……おぉぉ……
ひとすじの光明を見た思いで,おてがみを読了した次第です。

さて,「おすすめすること」を改めて観察してみますと。

そこには「価値観を共有したい/わかってほしい」「たのしんでほしい」「役に立ちたい」「自分のモチベーションをアゲるため」「布教」……などなど,さまざまな想いがグラデーションで詰まっています。

さらにもう少しかき分けてみますと,何かをおすすめするときのわたしの中心には「お守りを渡す」心持ちに近いものがあるような……と,いま気づいた次第です。

変性を続ける旅の途中,はたと立ち止まり,ふぅっと振り返ったときに。あなたのたどってきた道を,いつかこの"おすすめ"が小さなぼんぼりのようにぽわぽわと彩ってくれますように。

あわよくばその景色が「なんか,ここまで,わりと悪くなかったかも」と思える一助になっていたらうれしい。

目に映る灯りひとつひとつがなんだったのか,何一つ思い出せなかったとしても。


……そんな「旅路の安全祈願」めいたことを,"おすすめ"のときには多少なりとも思ったりしている,ような気がします……たぶん。

(2022.3.18 西野→市原)