春も朧な境界

いちはらさん


ヤンデル先生の ようこそ!病理医の日常へ』の発刊,まことにおめでとうございます!!

拝読しました。すばらしかったです!!(また感想など改めてお送りさせてくださいね)

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春です。春がきました。

といいながら,予想最高気温20°などとラジオから告げられますと東北出身者としては「それは もはや 初夏では……?」と戸惑うわけですが,外にでてみると吹く風はそこそこに冷たく。体感気温とカレンダーの整合性がとれていることに少しホッとします。


各地からほろほろと届く花の便り,いいですねえ。

そういえば先日,福島に住む友人から「今日の空」とケータイでとったらしい写真がLINEで届きました。

同郷とはいえ,その写真が取れる場所に立ったことはないのに,解像度がさほどよいとは言えない,小さな画像にうつる青空と雪の残る山々を目にした瞬間,現地の空気感……鼻から息を吸い込んだときの冷たさとか,湿度とか,なんだったら"匂い"までを,ふわっと嗅ぎ取ったような気がしました。

写真とリアルの境界が,一瞬だけ曖昧になったような感覚。


脇に寄せられた雪の小山をむりやり車で乗り越えようとした際に、車の腹のあたりから、今年何度目かという「ガリッ」を聞きました。

こちら,いただいたお手紙の「冬が春をノックする音」を拝読したときもまた。

あのちょっと不快な音を身体に感じたのと同時に,在りし日の祖父が運転する,なかなか車内が暖まらない小さな車,その後部座席に座ったときの狭苦しさと,かすかなエンジンオイルの匂いが現実にカットインしてきました。


いま体感しているデキゴトを,自分の中にあるモノゴトと,わりと力技で照らし合わせようとする脳の「ルーチン」にはいつも驚かされます。

でも。

記憶は脳の領分,という基本的な原則を前にしながら,上ふたつの記憶に関しては「これは,脳が覚えてたんじゃないよ,身体に残っていたものだよ」とささやく自分もいたりします。

…脳と身体,ばつんと分けて考えることがそもそもナンセンスなのだろうな,と,うっすら気づいてはおりますよ,はい。

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自分が「よく見えないなあ」のときは、仮想世界を拡充するチャンスなのだ。よく見ようとするばかりではなく(よく見ようともするのだけれど)、いっそ知覚の素材を他者に借りてしまう。

これ,なるほど! と膝をうちました。

自分の中から無理やり捻り出して結論を出してしまう・考えを閉じるのではなく,誰かの知恵やことばを借りて,その先へと視野を広げていく……おぉ,なんと胸熱……

(あんま関係ないですけど,FFシリーズにでてくる「おもいだす」っていうアビリティ,あれけっこうなギャンブルでしたよね)。

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「知覚の素材」といえば。

卑近な例で恐縮なのですけども,先日ソファの下に入り込んでしまった消しゴムをかきだそうとハンガーを手にしたときのこと。

消しゴムを無事に回収したのち,なんとはなしにハンガーをもてあそんでいると,そのうちだんだんとハンガーとわたしの手の境界があいまいになってきて,「自分の手が伸びた(?)」ような感じがしてきます。

何かの教科書・書籍で,そのような現象について読んだことがあったような,なかったような……と,ぼんやり「いつもより長く・広くなった手」を振り,眺めたのち,パッとハンガーを手放しましたらば。

へぇ……「わたし」って,ここまでだったのか……

と,自身の輪郭をなんとも新鮮に確かめたことでありました。

個人的に興味深かったのは,その後しばらく,件のハンガーが目に入ると「あれは,わたしの一部……」という感覚が,わたしの手に残っていたこと,そして,洗濯物を干す際に,うっかり床に落としたときに「痛っ!」と口にしかけたことです。

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そのことが発端,というわけでもないのですが,「見ること」の世界の旅をつづけながら,「触れること」の世界にも,もう少しずつ足を延ばしてみようかと不遜にも考えている今春です。

よろしければ,ご一緒くださると嬉しいです。


(2021.3.19 西野→市原)