見出し画像

地下鉄

(2021.08.14)
地下鉄のトンネルから、涼しい風が吹き抜けてくる。空気のかたまりが車両に押されてやってくる。もうすぐ、私たちの乗る電車がホームに入ってくる。

熱波がもたらす異常高温で、マドリードは連日、最高気温が40℃を超えている。なにを含んでいるかわからない地底の吐息でも、冷たいならとりあえずありがたい。
私と娘が立っている場所は、地下といっても明るい。地下1階にあるホームの上は、地上3階建ほどの高さがあるガラス張りの天井まで吹き抜けになっている。はるか頭上にある汚れたガラスが光を攪拌し、夢の中みたいなぼうっとした明るさがあたりに満ちている。

前ぶれの風のわりには静かに、すべるように入ってきた車両に乗り込む。8月のマドリードは普段より人口が少ないから、メトロも空いている。あいている座席に、娘と並んで座った。向かいの席には、大きなスーツケースを両足の間に置き、厚手のコートを抱えた女性。これからどんなところに行くのだろう。
ドアが閉まってしばらくすると、車内で、男がアコースティックギターを弾いて歌い始めた。エンリケ・イグレシアスのバイランド。
曲が終わると、小さな容器を持って乗客の間を回る。金を入れる人はいないが、男はさっさと次の車両へ移っていく。

一度乗り換えて、ティトゥアン駅で降りた。
階段を上って地上に出ると、むっとする暑さ。
両側にずらりと路上駐車の車が並んだ狭い通り。真上から照りつける日差し。銀色の影。カバンから取り出したサングラスをかけて歩き出す。
この近くに、オリエンタルスーパーがあると知人に教えてもらった。小さな商店のような店が多い中で、そこは割と新しくて広く、品揃えがよいらしい。

目当てのスーパーを見つけて、入り口はどこか少し迷ったのち、中に入る。
日本のこんにゃくゼリーを見つけてちょっと興奮気味の娘と、家の近所の店より安いので興奮気味の私は、店内を一通り見て回る。
水槽でウナギが身をくねらせている。
中秋節には少し早いが、月餅がたくさん並んでいた。蓮の実が入ったものがある。今度来たら買おうと思う。

帰りの地下鉄で、家の最寄駅が近づいた頃、白髪混じりの痩せた男が隣の車両から移って来た。白地に赤の細い縞のシャツ、ジーンズ、黒いスニーカー。肩から下げた量販店のショッピングバッグは、なにが入っているのかはわからないが膨らんでいる。
男は車両の真ん中で立ち止まり、両足を開いてバランスをとりながら話し始める。「妻も自分も仕事がない、子供がいる、食べ物に困っている」という話。
この人は数日前にも同じ路線で見かけた、と私は思った。まぶたをほとんど閉じて、乗客の誰のことも見ない様子から、はじめは目の見えない人かと思った。けれど、スタスタと乗客の間をめぐる様子から、そんなことはないと気づく。

駅に着き、出発した時と同じ、浮かび上がるような明るさの中に降り立つ。エスカレーターで地上へ。自動的に動く階段の一定のスピードで、暑さの中に戻っていく。出来立ての綿菓子の中に入って行くようだ。

家まで歩きながら、娘が「ポッキーのチョコレート溶けないかな」と言う。日陰を選んで歩く。さまざまな落下物や鳩のフンも避ける。

家について、Spotfyでエンリケ・イグレシアスのバイランドを流す。まだ耳に残っていたから、確かめたくて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?