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映画3本と3日間 父性2:母性1

この三連休、夫と2人で引きこもっている。
子供たちは、初日の朝早くに、私の父が来て実家に連れて行った。御所の南端のバス停に息子と娘を送って行くと、父はキャリーケースの脇に座って、パソコンを開いていた。息子が「おじいちゃんっぽい人がいる」と言った。
それで、夫と私の2人になった。14日に私が実家に向かうまで、丸3日ある。おいしいものでも食べに行こうか、お酒を飲むのもいいな、行きたい店があったはず……。
けれど、暑過ぎた。先月、猛暑の中で丹波にドライブに行って、楽しむどころではなかったことを思い出し、早々に出かけることを諦めた。夫は元からインドア派で、必要が生じなければ出かけない(その「必要」のうちには、私から誘われる、というのもある)。私が諦めた以上、出かける理由はなくなった。
そのかわりに、一日一本、映画を観た。午前はそれぞれ好きなことをして、午後は映画をみて、料理をして夕食をとり、少しお酒を飲み、近所を散歩する。そんな3日間が充実していたのは、多分、映画がどれもとてもよかったおかげだ。

1日目:ザ・マスター(ポール・トーマス・アンダーソン監督)
2日目:ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(ポール・トーマス・アンダーソン監督)
3日目:ペイン・アンド・グローリー(ペドロ・アルモドバル監督)

ザ・マスターは10年ほど前に見たことがあった。内容はほとんど忘れていたが、主人公が船で宗教団体の教祖に出会う話、とだけ覚えており、船の航跡の青い泡のカットをやけに鮮明に記憶していた。最近、なんだかもう一度見たい気がしていた。そのつながりで、同じ監督の作品ということで「ゼア・ウィル…」を選んだ。
アルモドバル監督のは、2019年の公開当時に見逃して以来、今までタイミングがなかった。
アルモドバル作品の、台所が好きだ。私は毎回楽しみにしている。マドリードのアパートメントの台所なら、赤や緑、黄などの鮮やかな色づかい、つやつやした食器棚の扉。片付け過ぎていないカウンターの上には、不思議な形のガラス瓶などのインテリア。他方で、田舎の台所も出てくる。今回見た作品の舞台のひとつはバレンシア地方の村で、地中に穴を掘って作った家の台所の壁は、カラフルなタイルで飾られていた。
この三作品を連続して見ると、トーマス・アンダーソン監督の2作は父、あるいは、父性について語っており、「ペイン・アンド・グローリー」は母や母性についての映画のように思える。というか、アルモドバル作品は基本的にそうだと思う。台所という場所がよく描かれるのも自然なことかもしれない。(ただ、「ペイン・アンド…」の主人公が育った村の名前はパテルナで、スペイン語で「父親の、父方の」という意味。なぜ、あえてパテルナなのか気になる。)
他方のトーマス・アンダーソン作品は、アメリカという国の物語を扱っていることから、父親がテーマとなるのは意外ではない。アメリカの歴史について語られる時、大抵の場合、父性が前面に出ると思う。もちろん台所が舞台となることはなく、その代わりに、大勢の人の前で演説をする男性がよく登場する。

ところで、「ペイン・アンド・グローリー」には、主人公が人やものに数十年ぶりに再会する場面がいくつかある。それを見ながら、自分が今までに出会った人のことを考えた。気にかけつつも、きっかけがなかったり遠くにいたりして、しばらく疎遠になっている人もいる。映画の中では思わぬ偶然で再会できるのだが、現実にはそう上手くも行かないので、待っていないで連絡を取ろうと思う。もう一度見たい映画、読みたい小説、行きたい場所も、先延ばしにしないでおこう。

画像は、スペインのカセレスという街。1年前に訪ねた時の写真。アルモドバル監督が子供のころ、一時期住んでいたらしい。

追記:
これを書いた後に、13日の夜、青山真治「Helpless」を見た。まったく違う時空と表現スタイルに飛んだ。

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