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語るのではなく、見ていたい
仕事関係の人たちと、夕食を取る機会があった。
全員、スペイン語圏の複数の国に赴任経験があり、話題は自然と「あの国のこれ、この国のそれ」になる。他に共通点もないので。
食べ物、観光地、天気、治安……。
私は、以前いたことのあるメキシコやキューバについて、空気が悪くて服を洗うと水が黒くなるとか、タコスは屋台のほうがおいしいとか、キューバの物不足とか、聞かれればそんな話をした。
でも、話せば話すほど、私はメキシコのこともキューバのことも本当に知っているわけではないという気がした。
自分がその場所を好きだという以外の縁はない。何十年も住んだわけでもない。まだ知らないことだらけだ。
話題のための話題、その場を無音にしないための言葉なんてそんなものかもしれない。
しかし、自分にとってどうでも良くないものを、いい加減に扱うことは虚しい。
私が”知っている”のは、私が見たものだけ。個別の経験だけ。私にとってはそれで十分。すべてを知らなくてもいい。今は知らなくても、いつか知ることができるかもしれない。
ちょうどその日に、祖母が新聞の切り抜きを送ってくれた。
オルテガ・イ・ガセットの言葉(鷲田清一「折々のことば」)。
「我々は、自分が言う大抵のことを理解していないと認めざるをえない。」
人が何かについて得々として語れるのは、ただ他の人が皆そのように言っているからでしかない。自分の責任において語るのではなく、ただ口まねのように言葉を交わす社会。
タイムリーに、自分もそんな社会の一員になっていると感じる日だった。
私は語るのではなくて、見ていたいな。
タイトル画像は、通勤途中の歩道で見つけた作品。
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