二杯の珈琲 【第二話 凪の狭間でココアを】
執筆=𠮷川幸歩(N高7期・通学コース)
第二話 凪の狭間でココアを
波が海水を寄せる音がする。青と白が頭に思い浮かんだ所で目が覚めた。
空は既にこんがり美味しそうな色に焼けている。
僕は、いつから時間を見失ったんだろう。
時計を見ると既に夕方の5時を回っている。
横を見ると、1人の女性が座っていた。
透き通るように白い肌、青く光る瞳に吸い込まれそうになる。
しばらく釘付けになっていたが、実際に肌が透けているのだと気づくにはしばらく時間がかかった。
「あら、こんにちは。」
彼女はまるで優しく咲く花のように微笑んだ。
「……?」
僕はしばらく理解ができずに、彼女の顔をみる。
「覚えてる?あなたが何をしようとしていたのか。」
「……。」
しばらく考えようとした時、彼女の唇が僕の頬に触れた。
顔がぽっと熱くなるのがわかる。
「まだ、私の所にくるのは早すぎるわ。」
彼女の口付けで脳が支配されたかのように、ぼんやりと意識が薄れていく。
僕はこの期間、一体何をしていたのだろう。
彼女へかける言葉もないまま、僕は再び瞼を閉じた。
7年前、僕は自殺未遂をした。心の自殺未遂。
もう、ここにいる意味がなくなったから。
母親がいなくなってから、父は僕のことを一切気にかけてくれなくなった。
これまで一緒に作っていたプラモデルも、分けながら食べていたポテトチップスも、縫い目がボロボロになるまで使った野球ボールも。
全てをそのほんの数日前に置き去りにしたまま、時間は過ぎていった。
だから僕は、何かに揺るがされる度、何度も心を殺そうとした。
けど、できなかった。
心が殺せないなら体ごと、と思い、僕は一番好きだったこの場所の月の光を浴びながらここから去ろうとした。
しかし、目の前が青に覆われて息ができなくなった頃、白い光に纏われて目を覚ますとここにいた。
それがさっきのこと。
ゆっくり瞼を開くと、彼女の顔が真横にあった。海岸に停泊している小型船が透けて見える。
ドキっとして目を逸らした時、ふとリビングに置いてあった写真が頭に浮かぶ。
「目……覚めた?」
僕は恐る恐る口を開いて言う。
「……母さん?」
彼女の顔が引き攣り、息が詰まっているのがわかる。老けている、と受け取られてしまったかな、と後悔した。
が、彼女は途端に僕に抱きつき、僕の顔を自分の胸に引きつけた。
「……龍斗。ごめんね。ずっとほったらかして。辛かったよね、しんどかったよね。」
頭を撫でられると、心なしか少し体の力が抜けた。
「……そんなことないよ、だいじょう……。」
最後まで言葉を連ねる前に、急に胸が締め付けられて涙腺が緩む。
こんなつもりじゃなかったのに。
母親、というのはどれだけすごいものだろう。
数年間閉ざしていた心の鎖を、幾度もなく簡単に解いてしまうのだから。
この気持ちを言いたい、言いたい……。
右肩に手が触れる。彼女が僕と目線を合わせ、言い聞かせるように優しく放つ。
「大丈夫。うまく笑えなくても、涙をこらえなくても。いいんだよ、もう。」
僕は途端にこらえていた涙が溢れて止まらなくなった。
歪んだ自分の顔が海に写されず、さらにぐしゃぐしゃになる。
「もう、いいの。」
「……これまでどれだけ苦しかったか、努力しても認めてもらえない、何をしても顔すら合わせてもらえない。辛かったよ、きっと母さんが想像してるよりも、ずっと。」
母さんは微笑んで、僕を再び抱きしめた。気づかないうちに、白い泡に包まれながら。
いなくなったはずの母親の腕に抱かれて、僕は海の中で1人眠った。
「いらっしゃいませ。喫茶店シェアトへようこそ。」
店内に綺麗な声が響く。
「わあ。すごくおしゃれな喫茶店。橋宮さん、よく知ってたね。」
「ふふ、まあね。」
今日は菅生を連れて、シェアトに立ち寄ってみた。
「ねね、とっておきの席があるの。こっち!」
私は菅生の手を掴んだ。お揃いのブレスレットに触れた。
「ちょっ……手……。」
菅生は照れくさそうにしているが、気にせず席に向かう。
後でいじってやろう、なんて考えながら。
席に向かう途中に、ふとシェアトの店内を見渡すのが好きだ。
最近は野良猫さんも常連客のようで、いつもと同じ窓の側にほぐされた鮭の身を入れた銀色のお皿が置いてある。
そして、いつもと同じく誰も座っていない一つの席にまたココアが置いてある。
それに、どの季節でもココアで、誰もその席に人が座っているのをみたことがないのだから、不思議で仕方がない。
もしあそこに誰かが座っているのだとしたら、マグカップに入ったココアを覗いているのだろうか。
※第二話 完
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?