前のめりについて

チケットを握りしめ、劇場へ行く。楽しみにしていた演目を見るため、スケジュールを調整し、前売り券を手に入れ、遠路を移動し、開演に十分間に合うように劇場に到着した。わくわくしながら客席を見渡し、指定された座席を見つけ、そこに座る。

【ケース1】:前の座席の人の後頭部で視界の一部が遮られていることに気づくが、「気にしないでおこう」と考える。だが芝居が始まると、気にしないでいられるほど軽い問題ではないと思い知り、落胆する。それは視界の下部の方、わずか5センチくらいなのだけど、そのわずか5センチが、舞台上の150センチまでを塞ぐのだ。舞台中央、一番いい芝居をする俳優の胴体が見えない。「でもせっかく楽しみに来たのだ。できる限り楽しもう」。そう考え、見えるところから見えないところを想像しつつ楽しむ。やがて芝居が進行するにつれ、前の座席の人が前のめりになる。視界がさらに大きく削られ、舞台床面から高さ2メートル半、視界の左右2分の1がその人の後頭部になってしまう。「自分も前のめりになるか、あるいは背伸びをしようか。でも自分がそれをしたら、自分の後ろの座席の人に申し訳ない」そう思い、自分の姿勢はキープしてしまう。「前の席の人の後頭部を見るためにチケットを買ったのか」と悲しくなる。

【ケース2】:自分の前の席の人が、自分よりもずいぶん背の高い人だった。その人は姿勢良く普通に着座しているだけだが、自分の視界は完全に塞がれている。「せめて首をすくめてくれたら」「あるいは浅く腰掛けて体を丸めてくれたら」、そうすれば視界は少しでも開けるけれど、そんなことを、体の大きな人にお願いするのは怖い。「もしかしたら、芝居が始まりさえすれば、首をすくめてくれるかも…」と一縷の望みをかけて開演を待つ。しかし芝居が始まっても、その人は姿勢を微動だにしなかった。真っ暗の視界の中、その人が大いに楽しんで笑い声を上げている。その声を聞く。

そういう経験を、身長173センチの僕でも、何度もしたことがあります。もっと身長の低い人たちなら、なおのこと経験しているだろうと思います。

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演劇の劇場の話です。

現状、「前のめりの姿勢」の観劇が後ろの観客の視界を塞いでしまう構造の劇場が多数存在することには疑いの余地がありません。物理的な姿勢の話です。気持ちの話ではありません。

上演空間では「床エリア」に俳優がいる時間はとても多いのです。客席で視界の下部が数センチ奪われるだけで、俳優の体がまるごと見えなくなることも少なくありません。寝転ぶ演技やしゃがむ演技は完全に見えなくなったりもします。演劇の劇場では視界の下部は重要なのです。

だから、ほんの少しの「視界の下部」を得たくて、ほんのちょっとのことだろうと考えて、自分だけ「前のめり」になりたくなる人も出てくるのでしょう。でもこれは、「前のめり」をした本人がプラス10の視界を得るかわり、周囲の人たちの視界を合計220くらい奪う可能性があります。少しだけだと思っても、前のめりはやめるしかありません。

それから、座高の高い観客が「深く腰掛け、背を立てて姿勢良く座る」場合も、後ろの観客の視界を大幅に塞ぎます。時には絶望的なまでに塞ぎます。身長の高い観客の方々は、自分が視界を塞がれる経験が少ないせいでしょうか、自分が後ろの人の視界を遮っていることに気づいていない可能性が高いようです(あるいはわかっていても軽く考えているのかもしれません)。平均的な男女の身長差から考えて、女性たちの方が不利な目に遭っている確率が高いのです。

対処する方法は、座高の高い観劇者は浅く腰掛け、しかも体は後ろに倒して背中を丸めて背もたれにつける、などがあります。劇場によっては、たとえ身長が全員同じだとしても、前方20列くらいは皆が互いにこの姿勢を取らねば視界が確保できない場合もあります。

僕も観劇する時はなるべくこうしていますけれど、かなり肉体的に苦行な上、事情のわからない人から「えらそうにふんぞり返って見てる」と悪い印象を持たれる場合もありますので、なかなかツライのです。

本当は、こうした苦労を観客がせずにすむように劇場が設計されているべきなのです。すでにあるビルの一室を改築・改装して作った小劇場などは仕方ないとしても。しかし、建築段階から劇場を入れることが決定して作られた劇場でも、視界が悪いことは多いのです。設計者やオーナーたちがこのことに心を砕いていないはずはないでしょうし、僕には思い及ばない専門的な努力の末こうなってるんだろうと思うので、単純には解決できない難しい設計条件があるのかもしれませんね。建築する人に聞いてみたいところです。

上演側としては、演じ方を工夫したり、舞台装置に「高い場所」を増やしたり、観劇時の姿勢について前説でお願いしたりすることになります。場合によっては上演カンパニーの費用負担で客席に座布団を配ったり、客席の床を底上げしたり、しまいには椅子を取り変えたりすることもあります。僕も劇団時代からいろいろ工夫はしてるんですが。なかなか悩ましいです。本当は僕も「こうすれば解決できますよ」という決定的な提案をしたいところなのですが、まだ工夫中で、たどり着いていないのです。

互いにマナーを守りあってくださる観客の皆さん、ありがとうございます。まだまだ、上演者も設計者たちも、工夫をしているところだと思います。

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