1960,1970年の安保闘争とその後の日本は?

昨晩のNHKの「映像の世紀」は戦後の我が国が2回の安保闘争をを政治に対して直接向き合った事例として安保闘争を取り上げた。

1回目の安保闘争は

サンフランシスコ講和条約を日米で締結した直後に岸信介氏が単独で調印した日米安全保障条約の改定の是非を問う闘争であった。岸氏は講和条約調印式の随行員(池田勇人ら)を外し、日米安保条約に関する責任を一人で背負うと覚悟を決めたらしい。安保協定は片務協定で米国は日本の危機を防衛しないが、日本中を好き勝手に利用できるので、占領政策が終わらないと言うものでした。安保協定の改定時に国民に改定のメリットを丁寧に説明せずに強行突破しようとしたので、学生たちが素手で立ち上がって反対活動を繰り広げた。その当時は戦争を忌諱する気持ちが一般市民にも息づいており、学生達を応援した。北海道大学学生であった唐牛健太郎のリーダシップもあって国民的政治活動として勢いづいた。然し、岸信介氏の訪米阻止を目的に羽田空港を占拠するも機動隊のごぼう抜き等の圧力に屈した。戦前の治安維持法の再来であった。

2回目の安保闘争は

日米安全保障条約は10年ごとに改定されるが前回、素手で機動隊に立ち向かった学生たちは今回は角棒や火炎びんなどの武器を手にしていた。この頃、唐牛氏は警察に拘束されることが多く、リーダーシップ(非暴力闘争)に陰りが出ていたし、経済復興が若者の熱い気持ちに影を落とし始めていた。新宿闘争をはじめ、過激な行動に一般市民は距離を置くことになってしまった。安保改定を阻止するために国会乱入を企てるも、樺林美智子さんの死亡事故で終わった。その後は学生たちの内部抗争など、リーダーシップ欠如状態に陥った。学生活動も過激になり東大の安田講堂立てこもり事件も鬼の機動隊の物量作戦であっけなく落城した。太平洋戦争の日本軍の負け戦の再現であった。警棒で大学生をふくろ叩きにした警察官はその大学生が上司となって職場に戻って来ると複雑な気持ちになったと思います。

2回目の安保闘争の影で起きたこと

この頃、学生たちはリーダ不在のまま迷走しセクト闘争にのめり込んであさま山荘事件につながった。あさま山荘事件はTVで全国に長時間にわたって報道され、ワイドショー化してしまった。その後、警察の捜査で学生活動家が引き起こしたリンチ・殺人事件が公になり、国民は政治活動に無関心になって行った。1970年は大阪万博が開催されて、「昨日より今日が、今日より明日は良くなる」と言う考えが蔓延し始めた。学生達も長髪を止め、デモなどの活動より、高給が得られる企業に就職する道を優先するようになっていた。

私の立ち位置


1964年 中学校を卒業
1967年 高等学校を卒業 政治的な出来事に無関心であった。
    高校生であった頃、同級生の中に政治的な発言をする人もちらほら
    と。私はひたすら働き、金を稼ぐことで手一杯でした。
1970年 新日本製鉄㈱に現業員として働き始め、高度成長を実感する。



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