日本製鉄㈱東日本製鉄所・君津地区との関り

私は1968年4月に八幡製鐵㈱堺製鉄所で3次下請けの作業員として働き始め、同僚はやくざやチンピラの集団で苦労した。同僚は中学校をどうにかこうにか卒業した学力しか持っておらず、所員から馬鹿にされていた。私は国立大学の受験をしていたので、所員を言い負かすこともともあり、現場監督者から一目置かれていた。親方の都合もあって69年4月に木更津市に移り、君津製鉄所の機械修理の仕事を始めた。堺製鉄所もかなり先進的であったが、君津製鉄所はその上を行く最新鋭の製鉄所でした。と言っても3次下請けには「汚い、熱い、危険、キツイ」仕事が回って来るだけで
した。焼結工場の定修工事に初めて従事した時は口の中が鉄粉でじゃりじゃりして昼飯が喉を通らなかった。水戸黄門漫遊記の佐渡金山の状況と似ていた。親方は1.5日分の請負量を私達には1日分と偽って日給を払うので笑いが止まらなかったと思います。労働保険も健康保険もなく、ケガや病気は自分持ちで労働者保護なんて夢の中の夢でした
一次下請けの社員(八幡製鉄所の作業長の息子)が「日々、無為に過ごしているとダメだ。機械修理に関する勉強をするのだ」と甘い考えを正してくれました。君津製鉄所を定修回りをしながら、設備を勉強しました。
新日本製鉄㈱に入社後、君津製鉄所に出張した時、冷間圧延機を見て、「ラインレイアウトが以前と異なるが」と質問したら、酸洗と冷間圧延機の直行化でレイアウトを逆にした」と教えてくれ、ビックリされたことがあった。
君津ではLPGタンクの開放検査の前準備をしていた社員が、翌日には顔と首筋が赤くなっていた。放出していたLPGにテトロン性シャツの静電気でガスに着火し、火傷を負ったと聞きました。
その後しばらくして、アンモニアタンクの開放検査準備をするために高さ2mのタンクの上に上がった。同僚が誤ってバルブを「微開」したところ、アンモニアガスが漏れだし、窒息しそうになった。何も考えずにタンクから飛び降りて事なきを得た。このように直営社員でも安全管理が不足していたので、私達のような3次下請けは自分の身は自分で守るしかなかった。
高さ8mのガス配管のバルブ取替工事も安全帯の親綱をかける場所もなく危険極まりない作業をしていた。その時の心構えとして、バランスを失ったら

手にしている工具は手放し、下にある設備は壊れても気にしない。その前に右側に落ちる方が良いか、逆の方が良いかを確かめてから作業を始めていた。3次下請け労働者が死亡しても「死人に口無し」とされるのが落ちですから

3次下請け労働者の時の経験が名古屋製鉄所の安全管理に役立った。

労働災害が発生すると安全衛生ニュースのして、所内で情報共有する仕組みがある。あなたは然し、その内容がいい加減過ぎたので是正を安全担当部署に申し入れた。「現場を知らないあなたは何を根拠にクレームをつけるのだ」と逆ねじを切って来た。君津に同じ設備があったことを例に挙げて、説明すると黙り込んだ。


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