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わがままも悪くないらしいが、それで確固たる人生にしていけるほど甘くはなかった

テーマでお借りした画像は、私の幼いころそのものです。
たぶんに、このような態度が今でも続いているらしい。
それでも恥ずかしさを知らいところが、私だろうか、妻によく言われる。

先日、ある記事を読んでいたら、『「他人からよく思われよう」と考えないことが大切で、我慢して自分を押し殺しながら生きるより、わがままに生きたほうがいいに決まっています。もちろん、法律を破ったり他人に迷惑をかけたりするのはいけません。しかし、普通の社会性と常識の範囲であれば、自分の気力、体力、財力、家族との関係を考慮しながら、できるかぎり自分のやりたいこと、楽しいことをやるべきです』と書いてありました。

我が意を得たり、とはまさにこのことでしょうか。
私の場合、意図してそうしてきたわけではありません。
自分が育った環境をながめながら、自分がもった自然なイメージなどを自分の心のなかや頭のなかでつくっていたようです。
だからでしょうか、小学生時代の自分にすぐに戻れます。
いわば、わがままを積みあげてきた人生だったでしょうか。

自分ではわがままと思っておらず、自分の視点をもって世の中を歩いてきただけなのです。
人は、妻にもですが、私のことをわがままな人間と呼ぶようです。
身近な人にそういわれると、そうかなと思うのが人間でしょうか。
ただそれだけですが。。。

私は、私の考え方で生きているだけで、とくに自分をわがままだと思っていなかったと思います。
世の中のほうがおかしい、と思ってきました。
今も、その感覚は抜けていないでしょう。
それほど、自分と世の中の差異を体で感じるのです。

この記事には、さらに『わがままという言葉はネガティブに受け止められやすいですが、必ずしも悪いものではありません。なぜなら、わがままであるためには自立心が必要だからです。そのうえに自分に矜持を持っていて、自己決定権を備えている人だけが、わがままな言動ができます。つまり、わがままでないことは主体性がないことの表れでもあるのです。わがままな生き方を目指すうえで、もっとも大切な心構えは、「他人からよく思われよう」と考えないことです』とありました。

私の場合、この方がいうようにわがままを目指したのではありません。
本来、わがままなだけです。
「わがまま」は目指すものか、という疑問はありますが、今やこれから先の時代、いわば日本経済に余裕がもてなってくると「わがまま」より大事なのは、小さなことでも自分で起業などができる力を身に着けることだと、私は考えています。

今の時代、目標にすべきは「わがままな生き方」ではなく、自分で起業できるようなスキルや能力を身につけていく自立心をもつことではないでしょうか。
息子たちをみていると、社会や企業と上手に折り合いをつけ、しかも自立した生き方をしています。
そのような姿から、遅すぎましたが人としての生き方を学んでいます。
残念ですが、先に生まれたからといって、私のような人間は人としてすぐれた生き方をしているわけではありません。

私のわがままがゆるされたのは、おそらくですが、昭和という日本経済が成長している時代であり、そのなかにいた人たちにも心に余裕があり、こんな私でも支えてやろうという度量があった人たちがいたからです。
そんな時代背景も私のわがままが通った理由のひとつでしょうか。
今でも少しばかりの自立心や矜持はありますが、それだけでわがままが許されることはありません。
自分ではよくわかりませんが、そこには人(とくていの人)に愛されるというキャラクターもあったのかもわかりません。

「わがまま<自立心」の人はよいと思いますが、私のような「わがまま>自立心」型は注意が必要です。
「わがまま>自立心」型では、確固たる人生を築くことはできません。
私が得た貴重な教訓です。
私は、時代と人に救われただけで、相当運がよかったと思っています。

それでも「わがまま」な生き方を学びたいと思う人は、記事を読まれてみてはいかがでしょうか。




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