「言葉」にすること

どうやらnoteというのが最近流行っているらしいということに気づいたのはもう大分前のこと。その時は「ブログ的なもの?」くらいにしか捉えてなかったけど、ただの日記かといえばそうでもないらしいと友達のnoteを読んでいて思った。そんなこんなでnoteという存在を知ったのは直接的には友人の影響だが、ではなぜ自分がnoteを「書く側」になってみようと思ったのか?という点について、最初に話してみたい。

学校段階が変わっていくのに従って、友人とのトピックも変わってくる。中学校・高校では、密度の濃い毎日の中で、その時・その一瞬を(どうかすると家族よりも)共有しているので、当然トピックもその日の授業やテストのこと、部活のこと、はたまたゴシップ的なことに限定される。正直これはこれで大好きだったが、どこか刹那的な側面もあったと今では思う。

では大学生になって4年が経った今はどうか。正直、あんまり変わってない。今でも下世話な話は大好きだし、飲み会でも盛り上がる定番の話題であることに間違いはない。が、一方で、自分の過去やこれまでのライフコースを振り返ってみたり、好きな本や音楽・映画について一歩踏みこんで語ったり、いわゆる「社会問題」について議論するようなことも増えた。

すると、思ったこと・感じたことをそのまま「言葉」にして、相手に「伝える」ことが、いかに難しいのかということに気付かされる。僕には「自分が強く心を揺さぶられたものを人に共有したくなる」という特性がある。自己顕示欲はそんなにない方だと自分では勝手に思っているが、この欲にだけは勝てない。本を読んで感動すればその感動を共有したくなるし、「あの人はどう考えるだろう?」と気になってしまう。

人と共有し、議論する、つまり他者との「トピック」にするためには、当然、自分の感情に言葉を与えなければならないが、これが僕はそんなに得意ではないらしいということに最近気付いた。大前提として、「感情」をきちんと言葉にしたことが、読者感想文くらいしかないから、慣れてない。さらに言えばそもそも、覚えてない。大人になると心揺さぶられたその「瞬間」を共有できるのは、同棲でもしてない限り旅行の時くらいのもので、となると必然的に過去のことを友人とのトピックにする。ところがあれだけ心揺さぶられたはずなのに覚えてないのだ。こんなに悲しいことあるか?と思ったのが、つい先日のこと。

さらにサークルの後輩があるブログにこんなことを書いていた。

特別じゃない毎日でも、なんでもない毎日でも絶対に「どうでもいい」毎日にはしたくない。細かいことは忘れてしまっても、覚えていたいことを写真に残したり書き留めたりする、覚えていたいと思えるなにかを見つけられる、そんな毎日にしたい。
覚えていたいことは強く捕まえて離さない、わたしだけでもいいから記憶に留めておきたい。

これを書いた作者の意図とは若干ズレているような気がするが、ともあれ、この言葉が僕にとってはnoteを始める決定打になった。

人間の脳というのは不思議なもので、ある事柄を他者に「伝える」と、その媒介が音であれ文字であれ、わりと長い間、記憶に残る。これは「伝えること」を学んできた4年間で身に染みて分かった。

自分がその時に感じたこと・考えたことを、なるべく丁寧に記録して、引き出しにしまっておきたい。そしてその引き出しから、必要な時に必要なものを取り出したい。そうして取り出した「それ」を友人と共有して、死ぬまで引き出しの、なるべく手前の方に入れておきたい。

この意味では、僕にとってnoteを書く作業は整理整頓のようなものなので、あまり人に響くようなものではないかもしれないけど、読んでくれるとやっぱり嬉しいです。

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