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猫の履歴書(2)高校生活①:入学

前回の続き。

4.「そこは難しいよ」と止められる

中学卒業後の進路は、情報科を置いている高校を目指した。祖父に手に職をつけろと言われていたことが影響しているが、部活動の顧問の先生が部のウェブサイトを制作しているのをみたこともあり、漠然とコンピュータとデザインの勉強をしたかった。

都立高校で情報科を置く高校は一校しかない。教育課程が定時制と通信制をに分かれていて、情報科は定時制に置かれていた。通信制は定時制との単位互換制度を除けば概ね普通の通信制課程だったと記憶しているが、一方の定時制は無学年単位制を標榜しており、自分で時間割を組むことが最大の特徴だった。生徒は年度初めに1時間目から12時間目まである白紙の時間割に必要な科目を埋めていき、自分で履修登録をする。1コマは2時限連続の100分授業なので大学より長い。風変わりなシステムを実現する都合で定時制課程だが、所定の単位を取得すれば3年で卒業することもできる(これは定時制課程であればどこも同じだと思う)。都立高校の授業料等諸費は東京都の条例で決まっているが、定時制課程は学費が全日制よりも安かった。
進路希望調査に校名を書いて出すと、進路指導主任の先生に「そこは難しいよ」と言われたことを覚えている。開校した当時、倍率が数十倍になったという伝説が尾を引いていた。当時の私はおそろしく無謀だったので、都立単願で受験した。
12月に高校の文化祭があり、同時に入試説明会があった。江戸川橋駅から歩いていくと、まるでオフィスビルのような校舎でおどろいた。都立高校で最も狭い敷地面積を補うため、地下2階地上7階建ての校舎になっていた。3基あるエレベーターを利用して校舎を上から下まで回る。文化祭の出し物の中にメイド喫茶があり驚いたことを覚えている。年明けに入学試験を受け、合格した。

高校には生活指導上のきまりである校則がなく、ゆえに制服がない。自由と責任がモットーの学校だった。以前、メイドさんにこの話をしたら「だから野良さんは行動がアメリカナイズされてるんだね」といわれたことがある。とはいえ通学ごときで毎日服装に悩むのは時間の無駄なので、ユニクロでジャケットを買って普段使いにすることにした。当時から私のプライベートの服装、すなわちジャケットにスラックスかジーンズをあわせるスタイルは変わっていない。祖父の真似をしてそのまま定着してしまった。
ここには学年はないがクラスという概念はあるし、担任もいる。ただし、全員時間割が異なるのでクラスルームや自分の机はなく、ロッカーもない。ホームルームなどできようはずがなく、大学生の生活に近かった。
教育委員会が3年目――学年がないので在籍年数を数えてこう呼ぶ――にホームルームをするように指導してきたが、少なくとも私が在籍している間はうまく運用されているようにはみえなかった。

5.祖父が生まれ、通った地

高校の所在地と私の親族の間には縁があった。私が通っていた高校の敷地は、祖父が戦前に通った国民学校(現在の小学校に相当)のあった土地だった。近所には親類も住んでいる。
祖父の話では、当時から地下構造があり、敷地は現在の高校が建っている敷地よりも若干狭かったらしい。当時、国民学校の裏には長屋があって祖父はそこで生まれた。国民学校が戦争で被災した後、都立赤城台高校が移転することになったので東京都によって土地が拡張されることになり、立ち退いたという。後に国立国会図書館で古い地図を確かめると、高校のテニスコートあたりが祖父の生まれた長屋跡らしかった。

(続)