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読んだ本こまめにストーリーにあげる人信用がしにくい

残暑が続いて体力がじわじわと消耗されている中、遠い場所にある美術館にいってきました。
遠い所へ行くという時点でまず日常離れ、そこへ美術館へ行くという事でまたひとつ日常離れと、非日常行動×2をしたおかげで、いまは亡き、さくらももこの世界観に想いを馳せつつ、巨大な疲労が押し寄せつつな感じであります。

さくらももこの展示がされていたのは神戸の美術館で、阪神電車で向かいました。
大阪に住んでいて阪神電車に乗ってまで兵庫県へ突入する必要がある用事は、阪神の試合を観に行くための甲子園までがせいぜいなところ、なんと甲子園を通り越して魚崎という全く見知らぬ得体の知れない駅まで乗ることになっていました。

魚崎というくらいだから、駅をおりたら鶴橋駅の焼肉のにおいのごとく魚くさいのかなと思ったりもしましたが全くそんなことはない、もし目隠しされて魚崎まで行って、ここどーこだ?と聞かれたら絶対に答えることができないような何の変哲もない友達の地元っぽい街でした。
阪神沿線は、まず阪神電車の車体そのものが昭和のまま一度も変えてないだろうという感じの古さと、梅田から阪神沿線の駅に一駅でもでた途端に昭和にタイムワープしたような原風景が広がるのが、阪神電車マジックだと思う。
これこそ"昔ながらの"なんちゃらかんちゃら

さくらももこの展示がされている美術館へと行くには、魚崎という駅に着いただけでは話は終わらなかった。
そこへまた六甲ライナーという、どうしようもないくらい田舎にあるくせに近未来っぽい名前のモノレールに乗ってもう一回乗り継ぎをする必要があった。
今日は、大阪の生野区から出発して果てしなく遠い旅路である。
田舎のモノレールは、ガタガタと車内を揺らしながら進み、下手な人が作った文化祭のジェットコースターに乗っているかのような気分になった。
でも美術館が建てられる土地なだけあって、なんとなく文学的な落ち着いた雰囲気のある場所だった。この辺りはとにかく空気に古い感じがするのはなんでなんだろう

肝心のさくらももこ展なのですが、観に行きているお客さんの子供から大人まで、大体が、その人自身がちびまる子ちゃんに出てきそうな個性的な風貌の人が多かったのが面白かった。それかb.bクイーンのどちらかに酷似してるかで、とにかくさくらももこに纏わってそうな空気の人がこの展示を観に来ていたのが不思議であった。
人と人は鏡であり、似た雰囲気の人を好きになるんだという人間の行動原理がさくらももこ展のお客さんにも現れていた。
そうしたら、すなわち自分も遠い目からみたらさくらももこの世界に住んでそうなのかも?!となって少し心が躍った。

漫画の原画を展示するゾーンが長く続いていましたが、さくらももこを大人になってまで好きな層はきっと文章がすきな人が多いと思うし、自分もその中の1人なのでせっかくの入場料だけども、漫画のあたりは流し見で通り過ぎた。あと一つの展示に長く居座り、べちゃべちゃと喋るカップルがいたというのも、漫画のコーナーを流し見で終わらせてしまった一つの要因です。こんなバカでも遠い場所まで観にきてしまうなんて、有名になるということはバカにみつかるということで、大変でもあるのだな、と思いました。

さくらももこの漫画とエッセイが面白いというのは、ある程度の日本人なら周知の事実ですが、今日の展示では今まで自分が知らなかったさくらももこの創作物がありました
神のちからっ子新聞という新聞なのですが、面白さのクオリティの、歴然とした差は置いておいて、自分が小学生の時に熱中して書いた新聞と、ノリがほとんど同じだったことに衝撃を受けました。
展示会を通して感じるのは、さくらももこという人間はこういう、子供の頃に感じた面白いことへの熱を冷やさないまま大人になり、漫画作家になりエッセイストになったのです
大人になるというのは物事に見切りをつけることの連続で、この人が生涯を通してやってのけたことは真逆のことであり、異常であり、だからこそ今日まで、日本で彼女の名前を知らない人は居ないほど、バカのアベックがアホ面で展示会に足を運ぶ程、大きな存在になれているのです。 

今日家を出る前は、この美術館の距離が遠いことで随分行くか迷ったのですが、やっぱり行って良かった〜。
自分が好きなものの展示なりアーティストのライブなり、その出し物自体も勿論おもしろいんだけれども、それを観に来ている人も結構観察しがいがあるのだということも今日学べていい1日でした。

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