Ofrenda JAN/2020

2020年1月1日水曜日

確かに自由を手にしたはず。だから何度でも逃げて自由をつかむ方法続けよう。時間や空間も通り越した別次元のリアルは今んとこ海のものとも山のものともわかんないのだから。別次元のリアル?。すごくまどろっこしい言葉で言ってるけど。黄泉の国に逃げ込むってこと。
そこに行っちゃうことで自由を得るという選択は最後の手段。というかそこは神様に任せるしかない。神様の定義ってのも自分の表現方法ではおよびもつかないまさにね神次元のレベルなんで。めちゃめちゃ平べったい言葉でしめるけど。現実の世界で自分が自分を殺す方法は取らないことにした。

大丈夫な時の自分だからこんな聖人もどきのこと言えるけど。大丈夫じゃない時。ここが最後の手段とる時なんだよって判断実行しちゃうかもしれないけどね。でも漠然とした居心地の悪さと時折波立つ揺れと立ち上がれないほどの倦怠感はバリ島の風景の中に入り込んでみて受け入れる次元にこれた。

モヤモヤの苦しみは現状をある程度言語化して目の前に現出させてみると案外和らぐ。どこが悪いのかわからない身体的な病を抱えていると身体の不調に加えて精神的な不安もマシマシになる。「それはね胃潰瘍です」第三者のお医者さんに告げられたら。もしかしたら自分は癌?。もうすぐ死んじゃう?
そんな未来への真っ黒な不安は消える。病名を宣告されても心の心理的な不安は劇的に減ると思う。自分を抑圧しているリアル。外に出ると呼吸困難になってしまうようなわけわからん状況に見舞われる。これも病といえば立派な病なんだろうと思う。天国みたいな場所に逃げ込んでも自由にはなれない。
自分が見えているリアルから逃げきることはできない。極北にある完全な自由って「死」なのかもしれない。完全なる自由を自分に与えてくれるのは神様。だから自分は自由を感じ取るためには手足を使って逃げ続けなければ生きてはいられない。リアルで自分を殺して生き残る方法は取らない。

こんな風にメモを連ねてみるとだいぶ楽チンになった。自分を殺してこそ生き延びられる日本というこの土地にいてもそれが言語化されて自覚できてれば超楽チン。いちいちリアルとギスギスやり合わなくても、ちょっと安心した地点で次のステージに退避できるのかなって。

こんな言草も今は大丈夫な自分だからなのかもしれないけど。旅することで獲得できたことの一つがこれらのことを理解できるきっかけに出会えた。書物にこもって他者の言葉で構築された世界でまどろんでいたのだけど、世界が発する言葉。それは文字だけを通してやりとりされてるんじゃない。

2020年1月2日木曜日

文字を通して他者の思考を理解できると思っていたんだけど。理解できる以前の話。文字を通して他者の思考を垣間見ること知ることができるって程度の話なんだと思う。世界の座標を移動。旅をすることで気づいた。そもそも自分のホームグランドみたいなとこから出ると文字自体理解できないしね。

人の話す言葉。息を吐く音。吸う音。身体の一部がそれに反応し震える。空気を揺らす。それを集中して聞き取る。言葉は文字だけで伝えられるのではない。音声も大事な要素。文字は固定されてんだけど。言葉は揺らぐ。言葉を発する気分や世界の状態により。受け取る意味に表情が加わる。

書籍に記された文字列をセトリとしたら人から発せられる言葉はまさにライブ。ライブの会場でしか感じられない奥深いコミュニケーションが交わされる。文字は思考を永遠に封じ込める優秀な記録装置。そのおかげで時間軸を超えた他者の思考や世界の有様を知ることができるわけなんだ。

だけど。文字が封じ込められた時のその他者の息づかいや感情の高ぶりがリアルに伝えられることは難しいんじゃないのかな。講演で発せられた言葉を忠実に文字に起こして書籍化しても。ライブで講演を聴いたこと。体験したこと。そのニュアンスを伝えること。記録すること。不可能だよね。

自分は長い間文字の世界にいた。二次元の世界にいた。その世界を知り尽くしたいと思ってたんだろうね。ま、二次元の世界のわずか入り口にたどり着いただけでげんなり辟易しちゃったわけなんだけど。文字が書き連ねられたものだけが書籍とか本じゃないってこと後々気付くんだけど。それはまたいつか。

閉じた自分の世界が三次元の世界に向かっていった旅の時代から、今やいつまで神様の判断と実行が自分に下されるの?。それも予断ならぬ時期に入ってきてる。振り返ると。一連の統合された自分という主体の記憶では圧倒的に他者と交わり世界と共通感覚を憶えることが多い時期だった。幸福だった。
幸福って定義も難しいね。幸福の沸騰点が高い人ほど、幸福を体感することのハードルが高いとよく言われるけどね。ベンツが欲しいとか、超イケてる人と結婚したいとか。そういうのには多分あんまり反応しないんだけど。美しい色や美しい音を自在に操りたいとかね。そういうことを幸福と捉えてる。
そういう幸福を手に入れ今も大きな世界を揺るがそうとしている人たちを現前にすると圧倒的な敗北感に見舞われる。敗北感を不幸というのではなく、充足感の欠如というのか、ニコニコ穏便に一日一日過ごすことができない。
何もしないで次に何を食べるかということ考えて生きながらえていいのか?。
そういう自己嫌悪に塗れて明日が来なければいいとかばっかり言ってるんだ。ほんとのとこは次に何食べるかって考えることは相当大事なことだし。何もしないで過ごすとは平和な日常を実現してることだし、生きながらえるってのは人として存在してる限り至上命題ではないか。自意識過剰の不幸人かな。
お金があればなんでも手に入れることができるってついこの前まで思ってた。でもちょっと気づいた。お金という概念も自分になんか語ることもできない難しい概念なんだけど。ものを交換できる価値の表象みたいなものかな。お金を持ってれば人の時間や自身のイメージも手に入れることができる。

お金をたくさん持ってると単に家とか車とかを手に入れることができるんじゃなくて。人との関係性だって変えることができる。でもここも肝心なとこなんだけど。お金で死ぬって運命を変えることができない。いやそのうちそれも可能になりそうな勢いなんだけど。

でも死ってとこに意識が行くと。お金で何でも買えるってことにズルズル疑念が湧き始める。超かっこいい高いギターはお金で買えるけど、それをかっこよく弾けて大好きなアーティストのバンドに入ることができるかは別の話。こんなこと考えて見ればどこにでもある。お金は幸福の尺度にはなり得ない。
お金で買える幸福はってのはかなり低い温度で沸騰するものなんだ。そんな次元でも目の前の世界にがんじがらめにされて逃げ切ることの過呼吸でぶっ倒れそうになってたんだなあ。自分はそこん所で行き詰まっていたけど、あの人はそれを超えていった。自分もそうなりたい。そういう対象が現れた。

大きな共通感覚で他者と自分と結びつけられた宗教的な神様ではないけど。自身のプライベート神様に出会った。そこから生きている間にこの神様に近づくことできるのか?。死という概念を圧倒的に意識するようになった。まさに神様はお金で手に入れることができない。

バリ島では神様に全ての美しいものが捧げられる。ここにきて自分の体験したバリ島を訪れた記憶とこれからの希求する行い。祈りという言葉で表されるかな。それが交わった。日々の所作の辿り着く場所が幸せの沸騰点?。綺麗事だらけだけど。また苦しむけど。自身で最終兵器オンしちゃうかもだけど。


2020年1月3日金曜日

今更 遠い旅の記憶を振り返ってるんだけど。こうやって言葉というものを駆使して記録を残すこと意識させてると次々といろんなことが出てくる。寝食忘れて没頭しそうになるので注意しないと。だいたいこういう行為が一段落すると大丈夫じゃない自分が現れてきて、酷いことになるんだし。注意。

だったらさ。一段落させなければいいんじゃないのか?。いやいやそしたら身体的なところがやられちゃう。そうこうしてても時間は進むし自分の終わりは近づく。冷たい水をごくっと飲んで次に行かないと。バリ島に出かけた結論の話は本に閉じこもってた二次元の世界観が覆されただけじゃない。

今夢中になってやってることって音をいじりまわしてること。自分の気持ち良い音を探してること。作ろうとしていること。音の原体験みたいなのは前にも書いたんだけど。眠りにつく布団の中に聴こえてきた盆踊りの太鼓の練習の音。その後はフツウのガキ的時代に傾倒するポップミュージックに浸かる。

時間があればラジオをチェック。どんなラジオだったか形もはっきり覚えてる。今こそiPhoneで聴いてるけど。音楽に向かう気持ちはその時から何も変わっていない。音楽に溺れれば、必ず音楽を作り奏でたくなる。ギターを買ってもらった。結論。すぐに挫折した。地道な努力。自分の辞書にはなかった。

2020年1月4日土曜日

地道な努力の教科は全て嫌いだった。数学、語学、音楽。でもね音楽を聴くことは、バッハだろうがクイーンだろうが美空ひばりだって好きだった。聴くことには夢中は必要だけど、努力は必要ないから。音楽を作ることや奏でることができなかった。この劣等感は今も消えない。そして未来はやってきた。

Macというおもちゃ箱。ギターに挫折してた頃には手も出せないっていうか。コンピュータなんて頭に思い描いていたのはアメリカのSF映画の世界の中。Macはこうやってワープロになる。フリーハンドの筆跡の原稿より無機質な文字はなんとも本物っぽい。住所録だって書籍のように美しい出来上がり。

まっすぐな直線で囲った矩形の面に色を次々と入れ替えることができる。そしてプリンターがそれを忠実に目の前に刷り出してくれる。地面に這いつくばるようにちまちまやってた作業は過程がごっそり省略された。まるで自分は神の力を手に入れたかのように興奮冷めやらぬ時代がやってきた。

コンピュータという道具が延々と続いていた音楽に対する劣等感を払拭できるのはないかという希望をもたらしてくれた。ただね。Macを使いこなすにはそれなりに努力が必要なわけで。そう簡単に神の力を身につけることなんてできない。特に音楽ソフト方面はね。ここでも壁に突き当たる。

壁というよりも。もう見た目のソフトのインターフェース。飛行機のコックイピットみたいで、かっこいいんだけれど。理解しようという行為にはそもそもならないほどのバリア感。これを操って音楽作っている人に対しては劣等感さえ湧き上がらないほど自分とは隔絶した世界だった。

2020年1月5日日曜日

音楽は動く建築みたいなものだ。がっちりした形が積み重なって音楽はできている。その仕組みを一つづつ覚えたり、その音を鳴らすために身体を鍛えていく努力というものがとにかくダメなわけで。一見Macはその努力をはしょってくれるものと思っていたけど。世界は自分の思い描く方には行かない。

そもそもみんなが簡単に音楽を作ることができたらできたて。いろんな人がいろんな音楽を作るようになって、世界中に簡単にばらまかれるようになったら。多分音楽を作りたいって事柄に一瞬で興味をなくしてしまうに違いない。そういう時代が加速度あげて近づいてるのは確かなんだけどね。

Macを駆使してナンチャラカンチャラのジャンルの音楽をこしらえて人様に聞かせたいわけじゃない。空気が揺れて人様がいい気持ちになれるような行為はそれは楽しそうなモチーフなんだけど。もうちょっと違う地点に自分のモチーフがあるんだ。需要と供給のバランスってことは一切考えてない。

需要と供給の理念って経済の根底にあること。自分が生産したものを人が買ってくれることによって。とか。自分の魂とか時間の拘束を提供することで社会で生きていることができるみたいなイメージ?。そういうこと払拭することなんてできないし。今更もうそんなことはどうでもいいことなっちゃった。

win winとかの綺麗な言葉に束縛されることがリアルで押しつぶされる原因なんだって気付いちゃったから。他者との関係性はとりあえず置いといて。自分は何したら楽しいのか?。どうしたら灰色した重たいリアルから逃げ出せるかのが優先順位一番ってことになってきてる。生きるために自分を殺さない。


2020年1月6日月曜日

小手先で人様とのコミュニケーションとって受け狙う行為はしない。そもそもそういうこと全然できないし。そういう才覚一切ない。涙ぐましくそいう行為を続けていてもことごとく跳ね返されてきたもの。だいたい人と交わるのがダメなんだ。人に対峙するのも人に対峙されるのも。できる限り遠慮したい。

そういった体質の自分が人の心を歓喜させたり震えさせたりできる可能性はほぼ0に近いでしょ。自分の夢中を獲得するために世界とすり合わせてものを作るって無理難題。でもこの世界に足つけているためには経済から隔絶している立ち位置にいることはできなかった。

そして尚更この場所を嫌悪みたいな感じになる。よくありがちな人格形成されていたんだなヤワヤワな自分。蒙昧な自分。それを俯瞰できるぐらい幸いなことに生きながらえてきたのだけれども。完全に否定できるには未だに成熟できていないわけだけど。とりあえずこのままでもいいか。みたいな。。。
正解なんてのはこの先もずっとわからないし。自身の自由のために手先を動かして物を作っていく。音楽というか音にもそういう心持ちで接していたい。震える音楽。そして音楽を構成する音。世界に鳴り響いいている音。人が鳴らす音。海や風が奏でる音。鳥や虫の生命の音。もっともっと耳を澄ませたい。


2020年1月7日火曜日

音に没頭することは闇に逃げ込むこと。人や社会と交わることから逃げること。視覚に支配された世界からちょっと逸脱するような。視覚から入ってくる情報って生きていくために大変な割合で重要視されているけど。視覚で認識されてる共通感覚で結ばれている人たちの中にいると窮屈になるんだ。

一人の人間にとって見渡すことができる範囲には限界がある。時代が進むにつれて歩ける範囲から電車で行ける範囲とか航空機で行ける範囲と拡大していった。今はテレビの画面の中で起きてる世界も現実化されて視覚に入ってくる。テレビの現実もネットみたいな対抗馬が出てきて揺らいでいるけどね。
ここで起きてるわけでもないし。利害関係もないテレビの中の人物のスキャンダルに歓喜したり怒ったりすることに遠くの原発で発電された電力を消費して大事な時間を受け身でテレビに支配されている「君ら」という人物像が頭に浮かんだら。「君ら」とは関わりたくないし「君ら」のようにはならない。


2020年1月8日水曜日


自分という主体と世界の関係性を確定するのって視覚に縛られてること多いと思う。でも視覚第一になってると逆に見落とすことも多いし視覚以外の感覚にも強い力があること。普段はあんまり意識していないかな。他人が発する音で狂気が発動させられる人のニュースなんかもあったよね。

古い写真が蘇らせる記憶と匂いが蘇らせる記憶の圧倒的なリアルさの違いにはきっと誰でも経験があると思う。視覚は自分が立っている位置や世界の景色を見せてくれる。自分とか他人とか世界とかがリアルに存在してるって気にさせてくれる。でもそれって輪郭線だけなんじゃないのかな?。

輪郭線以外のとこにある私や君や空や海もあること。普段もうすうす感じてるし、視覚がガンガンやられる世界に息苦しくなってくると、輪郭線以外の世界をもっと感じたいってなってくる。逃げ出す欲求。自由への逃亡の準備が始まる。


2020年1月9日木曜日

雨水が道に流れ込む音。深夜に山間に鳴り響くガムランの音。ジャングルの中でかすかに鳴り響いているけど止まない虫の声。風が椰子の葉を揺らす音。そういう記憶を手繰り寄せ始める。そういう断片が統合されて頭の中で共鳴する。バリ島という場所にいただいた宝物のような記憶の荘厳な世界。

こういう記憶に視覚的な景色も一緒に立ち上がるんだけど、ここでの視覚は感じ取ることができる風景の一つの補佐役ぐらいに止まってる。自分ではこの記憶を蘇らせてくれるのに音というものがとっても重要になってる。記憶を世界に立ち上がらせてくれるトリガーみたいな役割なんだと思う。

音は身体を意識させる。振動が身体を揺らす。聴覚というちっちゃな枠じゃなくて文字通り身体に感じるものが音。鼓膜に注入された音は身体の隅々まで響く。身体は共鳴器だなって思う。体調によって聴こえる音は違うし。拒否したくなる音もある。


2020年1月10日金曜日
気温が上昇し日差しが強くなれば生命活動は活発になり。それに伴うノイズも多くなる。車のクラクション。風の音。牛の鳴き声。バイクの排気音。雨の音。雄鶏の鳴き声。笑い声。子供の泣き声。いやが上にも音を意識させられる。目に見える世界はまぶたを閉じればあっさり遮断できる。

でも体に入ってくる音から逃れることはなかなか難しい。耳をふさぐという動作はまぶたを閉じるという動作に比べたら、手とか他の道具を耳まで持ってこなくてはいけないし。そういうものを使っても完全100パーセント音からフリーになることは無理だよね。普段の生活でもたくさんの音に囲まれてる。

自身が不快に思う音もたくさんあるけど、意識がそういうものを除外して聴いていないことに処理しているものもあるけど、過度の音量と連続性に不快数マックスになること度々あるよね。バリ島では気候のせいもあるのだけど、空間と空間の仕切りっていうものが相当開放的なので、音も通りやすい。

建物という自分と世界を区切ってくれる装置が儚い。だから、自分に届いてくる音の量も今まで体験したことがなかったのもあるし。聴いたことのない音もたくさんあった。地平線の果てまで響き渡るような朝の鶏の鬨の声。延々と唸り続け岸壁にうちつける波の音。地面にうちつけるスコールの音。

いつもいる場所と違った場所にいるということで、普段よりはずっとたくさんのノイズに見舞われているはずなのに、一つ一つのノイズを確かめるように大切に聞き取っていた。簡単に言うとバリ島で体験する音空間のスケール感がとっても新鮮だったんだと思う。


2020年1月11日土曜日

雑踏の音とか電車の音の世界で生きてきた自分。バリ島で受けた刺激は衝撃だった。もちろん視覚が捉えた景色も新鮮だったのは確か。色の鮮明さ。見たことのない植物が作り出す遠景、近景。人々が繰り広げる日常の光景。ただ見たものは即時に認識される。音は闇の中で探り出すような感覚。

意識の中に確定されるまでに時間がかかる。聴いたことがない音の体験には妄想とかも加わり不安感だって煽られることもあるし。「音楽」はそんな不確定要素に包まれた「音」を人間が楽チンに認識できるように規律のフィルターを通したものなんだろうな。文字ほど厳密ではないのかもしれないけど。
文字ほど厳密でないというところが、言語を理解できなくても音楽が引き起こす感情の揺れは波のように伝播していける原因なんだろう。音楽が奏でられる場所。リズム、ハーモニー。音楽を受け取るのは耳にとどまらない。耳は単に入力口。身体と世界の音をつなぐインターフェースに過ぎない。


2020年1月12日日曜日

耳から入った音。身体全体を揺らし共鳴することで音楽を認識する。身体は受け身でいるだけじゃない。音楽で揺らされた身体は共鳴し増幅されていく。身体がメロディーに乗りリズムを刻む。音楽に引き出される身体の可能性を普段の生活で使わない身体の動き。そういうのをバリ島のダンスは見せてくれる。

ガムランの金属音や人の肉声が踊り手の目や指先。身体と世界の境界線まで緊張を漲らせる。バリ島のダンスのライブは押し寄せるインド洋の波のような迫力でオーディエンスを圧倒する。スピーカーとヘッドフォンの音世界しか知らない自分。目の前に立ち上がる音楽と身体。自分も風景になっていく。
視覚と聴覚なんてこと言ってられない。一人の人間の感覚なんて端末の装置の一つなんだなってなる。自分の眼前にあるもの音楽とかダンスとか。飲んでいるアクアや食べている茹での落花生の味や匂い。サンダルで踏みしめている土の湿気や凹凸。風景の中で自分とか世界とかの結界が崩壊。みたいな感じ。

自分の感覚が認識している世界。自分以外の人々が構成している世界観も含めて。それに対峙しているという自分という主体のエッジを見極められなくなるような体験だった。音楽と人の身体表現。薄っぺらだけど。ライブのすごさって。なんともその時初めて知ったみたいなとこがある。

自分が日常生活してる場所でも、ライブってのを見たこと体験したことがなかったわけじゃない。ただ、そういうのってきちんと世界と舞台とオーディエンスってのに仕切りが設けられてる。映画館やパブリックビューイングに限りなく近い。お金を支払う者とお金を徴収する者の線引きもはっきりしてる。


2020年1月13日月曜日

バリ島でのダンス会場は寺院の境内。ダンスの演者も楽器の奏者も観光客もほぼ同じ地平にいる。観客にさっきまでチケットを売りつけていたスタッフも一緒にダンスショーを楽しんでいるし、佳境に入っているプログラム中にバイクが爆音立てて走ってるし。空を見上げれば月が煌々と輝いている。

思えば、ライブの鑑賞ってステージの演者達が作り上げている世界に集中しなくちゃいけないことないものね。綺麗な月眺めて日本でもこんな月が今か輝いてんのかなとか思いながらのガムランも乙だし。メークバッチリの女の子のダンサーの指先がバイクの青年の後ろ姿をなぞってるのかななんて妄想したり。

お香や花のこもったような匂いが立ち込めた空間。背中をスーと流れていく一筋の汗。たくさんの雑念や感覚が身体を全開状態にしている。こんな感覚に揺れに揺れている主体は自分だけではない。たくさんの主体。横にいるたくさんの君たちがいる。君たちも同じ時間で独自の時間を生きている。

ここでたくさんの人の時間が共有されてるとか思ったら。世界ってのはこういうもんなのかなってちょっと核心に触れたみたいな気分になれた。一つ一つのリアルが立ち上って霧のようになって空へ向かっていく。そのいくつかが結実してまた地面に落ちてくる。その無数の積み重ねを感じ取る。それが世界。


2020年1月14日火曜日

目を閉じると視覚以外の感覚装置が総動員して世界の輪郭線を辿ろうとする。眠ろうとする時、悪いスパイラルに落ちて、眠れなくなるのは、なんかの気配に感覚が過剰に反応してしまって神経が高ぶってる状態なんだと思う。

バリ島の音や音楽に過剰に反応してしまうのは深い闇が音や音楽に対する感覚を際立たせるということもある。普段コンビニの蛍光灯で照らされ、監視カメラでどんな時間でも動きが記録できるように闇のない街で暮らしていると忘れてる感覚なんだ。

見えていると世界は一つみたいな気になっているけど、闇の中に投げ込まれるとたちまち自分の立ち位置もあやふやになって、根拠のない不安と恐怖に見舞われる。見えないのに世界があるって気配。

音や匂い。手に触れる足に触れる世界。見えていない世界。視覚上にある世界とパラレルに存在する世界を体感する。そういうことになると、聞こえない世界。臭わない世界。触れない世界。というのもあるんだなと。そういう思いに至ってくる。

世界は一つと信じられている正しい人々が暮らしている正しい社会から逃げ出して自由になりたいなんて妄想は意外にに近くにあるのかもって気づいてくるよ。目を閉じればすぐそこに別の世界が広がっている。


2020年1月15日水曜日

音楽やダンスのライブ。バリ島ではお金払って鑑賞する観光客向けのエンタメだけがあるわけじゃない。神様関係のまつりごと的なライブみたいなのに外国人が関心をもってやってくるので、定期的に公演をしてそのために料金を設けました。ということになったのだろうけど。そうじゃないのもある。

もっと日常的に発せられている鼻唄みたいな音楽。聴かせよう、観せよう。聴こう、観よう。といった立ち位置にない音世界もバリ島では豊かで楽しい。バイクのタンデムシートで聞く運転手の喜納昌吉の「花」。レストランのラジオから流れてくるテレサ・テン。仕事の合間にギターの練習、ニルヴァーナ。

夜にると駐車場に若者たくさん集まる。ギター自慢のライブ。村の普通の若者なのにもはやプロの域。ここでもニルヴァーナが人気。そしてガンズ・アンド・ローゼズ。この熱帯の島でなんでこの革ジャンバリバリみたいなバンド?となるけど。まいっか。ジャパニーズがそんなこと言えないしね。

そしてやっぱりこうこなくちゃみたいにボブ・マーリーになだれ込む。誰が買ってきたかもわからないアラック(お酒・けっこう強い)ラッパ飲み、回し飲み。興奮高まって「ノーウーマン・ノークライ」オーディエンス大合唱。夜の空にタバコの煙と絶叫に近い声が昇っていく。

そこでスコール。蜘蛛の子を散らすとはよくいったもので、一瞬のうちにバイクの音が鳴り響きみんな消えていく。さっきまでの光景はなんだったんだ?。だよ。テレビやネットがどんどん広まっていって、きっと現在のバリ島の姿ではないのかもしれないけど。リアルの人の発する音やライブは刺激的。


2020年1月16日木曜日

バリ島の芸能でトップクラスに「kecak」という見世物。大人数の声が波打つように轟く大迫力の興業です。知っている人もたくさんいると思うのですが。バリ島に通っていた頃。自分が定宿にさせていただいていた宿のある村。ティルタガンがという王宮を見下ろす丘の上。

訪れる毎に歓迎してくれるのか、一度は「genjek」の夜ってのをやってくれた。珍しいゲストや特別な夜に村の男の人たちが集まってきて「kecak」から歌の部分を抽出したような。。。楽器なしの音楽。初めは一人の声から朗々と始まるのですが、途中からスイッチが入ったように大団円になだれ込んでいく。

声のガムランです。こぶしをきかせるみたいな個人の歌の技量がモノを言わせるような歌世界しか知らなかったので、最初聴かせてもらった時は度肝を抜かれました。一筋の水の流れがどんどん集まってやがては激流になるみたいな。そういうコーラス?なんです。バリ島での音楽体験で一番はこれかな。

2020年1月17日金曜日

「genjek」のリズムをリードしていくポンとプンの間みたいな声を出すパートの人がいて、この声に朗々とした歌声とお囃子が乗っていく。地味な役回りのようだけれど、その声は意外に響くし、ちゃんと引っ張っておかないと全体が総崩れしてしまう。これって「kecak」にもこのパートありますね。

ある時このポンとプンの間の役をやってみる?と言っていただいた。音楽というものは聴くものと思ってた。多少楽器をいじることがあってもそれは自分に聴かせるもので。外に向けることは前提じゃなかった。音楽の共同作業で一役演じるのはとっても難しかった。普段から声は出してるのにね。

音(言葉)を操作して他人とコミュニケーションをとれているはず。でも人の流れにきちっと合わせる。人が聴いて気持ちのよい音を出す。みたいな対外的な要素に身体的能力が縮こまってしまう。でもねそんなのも大きな流れにだんだん慣れて、自分も気持ち良い領域に入ることができるようになった。


2020年1月18日土曜日

楽器に触れることで音楽の仕組みを理解する入り口に立てるのだけれど。人間の身体も楽器になるんだって。自分も音楽になることができるんだなって「genjek」は教えてくれたんだよね。日本語以外で言葉を交わし合うことで必死に過ごしてたのも、この音楽に入り込むのを容易にしてくれたのかも。

「ポン」と「プン」の間の音を出す方がインドネシア語や英語を発するよりもずっと簡単だもの。だから音楽は世界共通の言語なんだよ。というのは全然違うとは思うけど。言いたくなるのはわかる。でもやっぱり「genjek」のことはノリで感じることはできるけれど、実際のところは何もわからない。

この音楽は言葉を唱えていることで成り立っている。人の発する言葉を音だけで気持ちよくなっている自分が言葉の意味も耳で捉えていたら。それはどんな心持ちになるのかは想像できないし。この音楽の現場に一緒にいさせてもらっている人たちとどれだけ共通感覚を交わしているのか甚だ疑問だよ。

2020年1月19日日曜日

西洋とか先進の国々という枠組みに超憧れてる極東の島国には「洋楽」っていう音楽ジャンルがある。あった?。そんでもって自分はこの「洋楽」ってのにどっぷり浸かってたと思う。先を行く音の技術に心をとらわれ。音の表面だけに夢中になってた。というより言葉が弾ける音楽を遠ざけていた。

歌詞を理解している文化圏の人が感じている音楽と歌詞さえシンセの音一つみたいに体感している人。どれほど音楽に対する意識に差があるんだろう?。例えば、フランク・シナトラと美空ひばり。フランク・シナトラの声は素晴らしい音として耳を喜ばせる。人の声は楽器を凌ぐ圧倒的魅力がある。

一方、美空ひばりの発する声も耳に届けば素晴らしい快楽を与えてくれる。でもそれだけじゃない。メロディーに乗って朗々と流れる言葉に平静ではいられなくなるほど感情は揺さぶられる。これが日本人の魂!!。みたいなことを安易に発して悦にいるのはクソなんだけど。一ミリぐらいはそう思う。

そもそも日本人の魂の「日本人」って誰?と思うし。その「日本人」って枠に括られて君らと共感するかって言いたくなるけど。日本語、言葉ってコミュニケーションということになると、今ここで顔突き合わせて日本語話し合ってるてるお隣さんみたいなことになる。「日本人」なんてのはそこではいらない。


2020年1月20日月曜日

そんな日本語使う隣人。一緒に美空ひばりの歌聴いたら。お隣さんと泣きそうになりながらこの歌いいねえとか言っちゃって肩組んで逝っちゃうかもしれない。世界の隅々に行き渡るフランク・シナトラの声、音楽。これが世界標準なんだよって。それがかっこいいんだよって思ってみても。
ローカルのソールフードって人に言うとちょっぴりダサい?。とかなっても。やっぱり美空ひばりは震えるよね。なんだと。思うよね?。けっこう開き直りが入ってる感も否めないのだけれど。すっと肌になじむ言語。神経をある一点に集中して意味を捉えるストレスがない状況で身体に入ってくる音楽。

メロディーとリズムに乗って押し出されてくる言葉の力を伴った音楽。どんなに喚いても日本語っていうルールに括られて便利に暮らしてんだし。その言葉を駆使して心を掴み取ろうとしているアーティストにはやられちゃう。フランク・シナトラと美空ひばりの例えはちょっとピンとこないんだけれど。

2020年1月21日火曜日

もうちょっとリアルなサンプルを想定すると。オアシスと銀杏BOYZ。ビリー・アイリッシュとDAOKOなんかを並べてみるとどうだろう。言葉を音として雰囲気だけで聴いている音楽と言葉を音と意味としても聴いている音楽。気持ちいいみたいな曖昧な感情以上の感動が身体の芯に届くのはどちらか?。

今してる話ってストレスフリーで日本語以外の言語を理解できる人。そういう人は別ですよ、もちろん。それ前提で読んでいてください。昔。邦楽と洋楽なんてカテゴリーがあったこともある。イギリスのバンド。アメリカのソウル。ビルボードのチャートを賑わしている雲の上のアーティストたち。

まさにこれが洋楽。洋楽が神だった。テレビの歌謡ショー。お遊戯の延長で歌って踊るアイドル。よちよち歩き始め雨後の筍みたいに出てくるバンド群。語弊があるのかもしれないけど。邦楽ってこんな感じだった。この邦楽は、そんなの聴いてるんだ的な扱い。音楽好きというカテゴリーには入れなかった?。

そんな時代。音と言葉とかややこしいこと考えることもなかったなあ。ロンドンやUSAの音の快楽とビジュアルにやられてた。キラッキラでキレッキレの世界。それに対して、こたつでみかん食べてごろごろしながら見せているテレビの世界。実際今も構図はそんなに変わっていないような気もするけど。

2020年1月22日水曜日

本当はね、こたつにテレビの方が圧倒的に楽で気持ちいいはずなんだ。でも背伸びするよね、人って。正解がわかんないような料理を超難儀なマナーでいただくレストランに大金叩くような行為がカッコイイ。喜怒哀楽とか一切感じさせない表情でモヤモヤ歌うようなバンド。これ尖ってるカッコイイ!。
そのアーティストが自分の耳までどうやって届いてきたのか?。このバンドはどういう衝動で音楽を放っているのか?。そういう文脈みたいなもの一切考えることもなく、文字どおり雰囲気だけで選びとって聴いていた。ジャケ買いみたいな感覚。他のことしてる時に隙間を満たす音楽。まさにBGM。

五感が受ける快楽だけを世界に散りばめて膠着している空気にまどろんで安穏としていれた幸福な時代。世界の悲劇や怒声や叫びはテレビの中で見るもの。世界から遠く離れている僻地で眉間に皺寄せて音だけの世界に没入してこれいいねなんて言ってられたジャズやら洋楽ファンの苦悶の図。楽園だ。今も?。


2020年1月23日木曜日

ジャズやソウルやロックやパンクだ。レゲエだ。テクノだとか言ってるとこにヒップホップというが現れた。言葉が流れる。溢れる。畳み掛ける。ラップ。今までの音楽の一部としての人の声という概念とは一線を画している。スピーチに音を乗せたような音楽。言葉が主役の音楽が世界を席巻していく。
言葉が前面に出るってことはメッセージ性が高い音楽ってことで。言葉がスムーズに身体に入ってこない人。ノリで聴くってのに?マークがどんどん積み上げられていく。でかいカセットデッキを抱えて街中でシャウトしてる様に新鮮な衝撃と憧れみたいのは覚えるけれど、なんかイマイチ乗れない。

ジャズとかソウルとか素敵な音源のパーツ。それが延々ループしてく。そこにラップが乗っていくのがヒップホップ。言葉が理解できないで音だけに耳を傾けていると音の反復にやっぱ飽きるのです。言葉を発しているラッパーの感情の起伏は多少伝わるけど、単調な音の反復が耳に届いてるだけの感覚。

2020年1月24日金曜日

売る側。買う側。市場にわかりやすく並べて、手に取りやすくする。欲しいものを探しやすくする。ジャンル分けという仕組みは大切。音楽にもたくさんのジャンルはあるよね。でもロックというジャンルはあまりにも漠然としているからロックのジャンルはさらに細分化されたジャンル分けがされている。

細分化されたジャンルが次々確立されていくと、大元のロックというジャンルなんて今更誰も意識していないんじゃないのかな?。ヒップホップも今やそんな感じ。ロックにもジャズにもヒップホップは入り込み。音楽自体のジャンル分けという概念も何が何だかわからないような状態になってきてる。

ヒップホップという音楽。今は演壇に立って拳を上げて唾を吐きながらスピーチするような感じじゃない。暗く淡々とし語られ、どんどん先鋭化されていく印象。言葉が翻訳ソフトのようなインターフェースを通さなくてもすっと身体に入ってこないと退屈な感覚しか残らない。


2020年1月25日土曜日                                                                                                            

ヒップホップが時代の潮流になってくると、インターネットだ。世界のグローバル化だとかの時代に言葉の壁みたいな使い古されて忘れてたような概念がじんわり空気に滲み出してきた。言葉を共有できない音楽って言葉を共有できない人の体感する感動を共有することも無理なのか?。うすうす感じ始める。

いつかこの国でも「趣味は音楽鑑賞で主に洋楽を聴いてるよ」なんてこっぱずかしいことを言う人はいなくなった。「洋楽」に対峙してた「邦楽」という言葉もJPOPなんて言葉に置き換えられた。それだけじゃなくて内容もグーンと進化した。今さら「洋楽」の扉叩かなくても耳は満足させられる。

さらにJPOPなんてのも今は過去の遺物みたいになってしまって世界のアーティストに懐かし音源としてのネタにされている。日本語という点で共有されていた音楽が音として増強されて世界で鳴らされている。それを日本語を使う自分も気持ちのいい音楽として聴いている。


2020年1月26日日曜日

音楽は言葉で壁も作るけど。音楽の言葉は壁も乗り越える。なんだか自分の音楽の思い出話みたいに延々と綴ってきたのだけれど。バリ島での「genjek」という音楽にどれほど自分が現地の人と感情を共有できたんだろって疑問から始まった話しだった。ま、結果はそんなことどうでもいいことなのかな?。
自分は君ではないし彼でも彼女でもないし。ここはあそこではないしそこでもないし。個々のものは同時に複数点に存在することはできない。と思う。現実という世界の中ではね。だから言葉を理解し合う以前に人の感覚と自分の感覚をぴったり重ね合せるなんて無理。

周波数がちょっと触れ合っただけでも超OK!。それでも気持ちいいこと共有できるし。頭から他者を否定する方向とは別の方向に動いているんじゃないかな。全員、全部を理解できなくても。一人一人。一つ一つ。LOVEを重ねていこうよみたいになるのかな?。ということで締めましょうか。


2020年1月27日月曜日

バリ島での記憶を遡っていくと身体を使った表現を感じさせらたものがもう一つあって。肉体の動きの軌道を叩きつける痕跡としての絵画。ドローイング。ペインティング。描く表現と塗る表現。方法としてはちょっとかけ離れてるようにも見える。けど。身体の動きが刻まれている点は同じ。

インスタとかに特徴的に現れる写真という表現。それと絵画は身体性という点では、視覚表現として明らかに袂を分かつ。絵画を作っている人々の息吹を感じたくて絵画の現前に立つのであって、それが感情を揺らすわけ。データだけの表現はそれはそれで興味深いんだけどね。なんかちょっと違う。
絵画という話になると、一人のアーティストが一室にこもって制作しているイメージがあるんだけど。絵画を描くってとこじゃなくて。絵画を作るって視点にシフトすると。親方が図面見ながら職人やら弟子達に指図出してる図。みたいなイメージに変わる。たくさんの人の身体が響き合う表現。


2020年1月28日火曜日

バリ島ではそういう職人的な美術表現とみんなが思う現代のアーティスト像が表現する美術表現が混在しているところが魅力。日本での文明開化的時代での西洋美術と民芸運動みたいな感じ?。バリ島の美術館でヨーロッパの絵画の歴史の変遷をなぞっていく美術家さんの作品を見させていただくと

日本の美術家さんの流れと変わらないように感じるし。日本という場所では回顧する対象になってしまった民芸品。バリ島では今も現役でし続けてるし、それが世界中から人とお金を呼び込んでいる。こういうのって音楽とか芸能と同じだなってなってよね。美術というのは絵画表現だけには止まらない。

彫刻。木彫。石彫。金属加工品。染め。織物。たくさんたくさん。日本語だとほぼお土産品という括りになっちゃうんだけど。こういったお金を稼ぎ出す民芸品。異界を訪れた人が記憶のためや他人に報告するために求める大量生産されたお土産品にはまだまだ堕ちていない。

作り手の身体の動きの痕跡が刻み込まれたクオリティーの高い美術品の延長線上にある。観光地というマーケットで流通している物。もちろんチャラいのもいっぱいあるんだけど。そのチャラさも作り手の身体の動作の痕跡が感じられるとこに魅力がある。つまり。完成度の高いチャラさじゃないとこ。

個体差がハンパないとか狙ってはいない立て付けの悪さみたいないびつ感。アートという曖昧な対象にも求めているのって案外こんな点なんじゃないかな?。めちゃくちゃ濃密に装飾された調度品。なのに。まともに閉まらない。日本というのはまるで逆の発想の文化なので。とても新鮮に感じられるんだ。

2020年1月29日水曜日
開き直りの貧の美。だけど水も漏らさない立て付け。オリジナルは作れないけど、改善、改善、改善、一生やってろのフォロワー体質。そういうジャパニーズの空気に圧殺されそうになってると。バリ島の逃げ場としての誘惑はこういう所にも見出される。スムーズな大量の物作りに自由も幸福も感じない。

幸福は手作り。喜び悲しみ怒りを帯びた身体が世界に残した蠢きが刻み込まれた残滓。そんなものを必死に作り上げようとすると、人としての輪郭線のエッヂをうろつかないと見つけられないリスクを犯さなくちゃいけない。それでも辿り着くことは奇跡。でもバリ島にはあっけらかんとしてそこにある。

奇跡を起こそうなんて気負わなくてもいいんだよ。手作りが奇跡を普通に起こす。そういうことをふと理解する。湿気た空気と果物や花のむせ返るような甘い香りの中で手持ち無沙汰の手足が何気無く作り上げていく物。価値として交換を前提にしていない物の作成。価値を持つかどうかはまた別の話。


2020年1月30日木曜日

自分の未来を思い描くには自分を世界に存在させておくための経費というものがかかる。食い扶持を稼ぎ出さないといけない。計略をひねって世界から金をくすねないといけない。あるいは他人に自分を売って奴隷にならないといけない。計略ひねるには頭使うし、奴隷はストレス溜まる。

日々の暮らしのバランスは思考に集中しがちなんだ。人様に生まれたんだからそれはそれでいいんだけれど。考えているだけの機械は何も生産しない。世界に何らかの表現を体現することもない。人様は考えてばかりで生産するのは機械にお任せ的現状に違和感抱かない。人様も生産できるということ忘れる。

自分は一体どうしてここにいるんだ?。どうやってここに来たんだろう?。釈然としないモヤモヤを抱えていたまだまだ瑞々しい生き物だった頃。世界の輪郭線みたいのを感じるためにいろんなもの見たり聞いたり嗅いだり触ったり食べたり。ありとあらゆる感覚を駆使して自分の身体との関係性探ってた。

自身の身の回りのもの次々粉砕してつなぎ直したりしてたよね。まっさらな紙を折り曲げて作る折り紙だってクレヨンを紙に擦りつけて描く絵だって。さらに積み木。解体と再構築。壊すことを身体で感じつつ。そこから別のもを作り上げるっていう過程は楽しみだし純粋に快楽と言えると思うんだ。


2020年1月31日金曜日

ものを一旦壊して、元通りにするもよし、違うものに作り変えるのもよし。新しいものが出来上がる。この過程を手作りというのかな?。手作りの作業を無数に繰り返して得られるのが漠然としてるけど、自分の結果なんだ。思考のみで自分という主体から何も発してなかったら思考自体が分裂>破裂する。

手作りを積み重ねる。自身という主体を世界に保つこと。自由な世界に逃げ込むだけじゃない方法もあるあるのかな?という気にもなってくる。でもそれが本当に正解かどうかはわからない。手作りを積み重ねている自覚があってもそれが負担になってそこから自由が不自由に転じたりね。人はややこしい。

考えることと手を動かすこと。思考と身体。どっちもちゃんとリンクしているし、バランス取ることもなかなか難しいんだけれど。無心で体を動かし続けろ!みたいな抽象的教訓は一ミリも心に響かない。でも体を動かさないと最低限リアルの苦悶から逃亡もできないし。

思考が滞るようになると身体の動きもスローダウンしてくるので、手という端末はできるだけ動かし続けていたい。初めのうちは楽しみや快楽でパンパン自動的に動いている手も、反復の疲労と倦怠でスムーズにいかなくなっても、目先を変えて続ける。無駄に反復は自分に強要はしなくてもいいから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?