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==風のような話==


気球。あの空に浮かぶ気球。
下から見ていると、空に放たれ冷たい風に吹かれたゴンドラの中はさぞ寒いだろうと思うが、ゆるい風に流されて空を漂う気球の中は風と一緒に動いているので全く穏やかな空間なのだ。
地に足をついている私たちのほうが空気の流れに逆らい冷たさに耐えているのだろう。

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状況を理解するのには少々時間を要した。
いや、理解は不可能だし理由もわからない。
自分自身、納得がいかないし、どうにもこうにもわからない。
むしろ家族の方がこの状況に対して理解を示していたように思う。
朝起きると、私は犬になっていた。
イングリッシュセッター。
可愛い子犬ではなく成犬の白いイングリッシュセッター。
朝普通に鏡を見たとき自分の顔は犬だった
そこから数えて、今70回ほど鏡を見返し、ようやく諦めに近い感情が生まれてきた。
どうせ犬になるならパピヨンみたいなちょっとオシャレでかわいらしいのが良かった。
なんでよりによってセッターなのか。
まあそれでも、茶色や黒じゃなくて白で良かったかもしれない。
顔に出ている薄い茶色の斑点は、私の元々のそばかすに由来してるんだろうから仕方ない。
人間が諦めの生き物なのか、自分がそういう性分なのか知らないが5時間ほど経つと、不自然さも消えてくる。
人というのは不思議なもので違和感を持っていても、そこから抜け出せないことを知ると環境に順応しようとするものなんだ。
もはや人ではないのだけど。
隣には昔から犬のLUがいる。コールデンレトリバーのLUは私がLUのビスケットが好きでつけた名前だ。
私にはどんな名前が付いているんだろうか。あの人が好きな朝食のグラノーラなんてつけられたらたまらない。だいたい語感が悪い。
名前のことはどうでもいい、なぜ犬になったのか今までの経過を思い出してみよう。
昨夜は普通にご飯を食べ終わって、父や母はお茶を飲みながらそろそろ寝ると言ってそれぞれの部屋へ消えて行き、私は残ったワインをちびちび飲みながらLUと遊ぶあの人を見ていた。
私はあの人に甘えてはしゃぐLUが羨ましく、むしろ嫉ましくさえ感じていて、私も犬になって甘えてみたいと思ったところまでで記憶が消えている。
なんでこうなっているのかを聞きたくても口が思うように動かないし、無理やり喋ろうとしても鳴き声にしかならない。
人の時には犬同士で言葉が通じるように思っていたけれども、実際こうして犬になってみると、LUはワンしか言わない。ワンはどこまでいってもワンだ。
鳴き声が言語だというのは人間の幻想だったとわかった。
もっとも、このまま私が犬であり続けるとして、感覚が人間から犬に変態していくのであれば鳴き声の感情表現が理解できるようになるのかもしれないのかな。という期待と悲しさはある。
人でいられるうちに、頭に私が残っているうちに、私は私の感じたことをとどめておきたい。
どうせ記録もできないし、消えてゆくのだろうけれど。
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犬として出る初夏の夕暮れの庭は、草の匂いと透き通った白ワインの香りがした。
そういええば私は白ワインが好きだったなと思いながら、LUと一緒にあの人に戯れに行く。
ジーンズのコットンの匂いと洗剤とあの人の匂いが混ざった香りに急に泣きたくなって、膝の間に顔を押し込んだ。
頭と喉をぐちゃぐちゃに撫でられた私は嬉しくて嬉しくて、もっと頭を押し込んだら、グイッと顔を持ち上げられたので、思いっきり顔を舐めてやった。
こうやっていくうちに私は少しづつ変わっていくのかもしれない。消える自分と残る意識に混乱した私はゴロンと倒れこむように芝の上に転がった
「行こうか」あの人の声が聞こえた
私はあの人とLUとで川の土手へ散歩に来た。
埃っぽい街の中を吹く向かい風の中に感じる臭い匂いを嗅いでいると情けなくなってくるけれど広い土手に出ると、こうして3人で歩くのも悪くないと川辺から吹いてくる風を感じながら、なんとなく凛としたような気持ちになってきた。
私とLUのリードがはずされ、追い風に乗って走り出した時、なんとなくこのまま犬でいるのも悪くないかな。と思った。
相変わらずLUが何て言っているかは分からないけれど。


2017/2/13

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