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書評:岡野八代『ケアの倫理』(岩波新書)

大意

身体性に結び付けられた「女らしさ」ゆえにケアを担わされてきた女性たちは、自身の経験を語る言葉を奪われ、言葉を発したとしても傾聴に値しないお喋りとして扱われてきた。男性の論理で構築された社会のなかで、女性たちが自らの言葉で、自らの経験から編み出したフェミニズムの政治思想、ケアの倫理を第一人者が詳説する。

本書の目次

序 章 ケアの必要に溢れる社会で

第1章 ケアの倫理の原点へ
 1 第二波フェミニズム運動の前史
 2 第二波フェミニズムの二つの流れ――リベラルかラディカルか
 3 家父長制の再発見と公私二元論批判
 4 家父長制批判に対する反論
 5 マルクス主義との対決

第2章 ケアの倫理とは何か――『もうひとつの声で』を読み直す
 1 女性学の広がり
 2 七〇年代のバックラッシュ
 3 ギリガン『もうひとつの声で――心理学の理論とケアの倫理』を読む

第3章 ケアの倫理の確立――フェミニストたちの探求
 1 『もうひとつの声で』はいかに読まれたのか
 2 ケアの倫理研究へ
 3 ケア「対」正義なのか?

第4章 ケアをするのは誰か――新しい人間像・社会観の模索
 1 オルタナティヴな正義論/道徳理論へ
 2 ケアとは何をすることなのか?――母性主義からの解放
 3 性的家族からの解放

第5章 誰も取り残されない社会へ――ケアから始めるオルタナティヴな政治思想
 1 新しい人間・社会・世界――依存と脆弱性/傷つけられやすさから始める倫理と政治
 2 ケアする民主主義――自己責任論との対決
 3 ケアする平和論――安全保障論との対決
 4 気候正義とケア――生産中心主義との対決

終 章 コロナ・パンデミックの後を生きる――ケアから始める民主主義
 1 コロナ・パンデミックという経験から――つながりあうケア
 2 ケアに満ちた民主主義へ――〈わたしたち〉への呼びかけ

 あとがき
 参考文献

概略

キャロル・キリガンが切り開いた「正義の倫理・ケアの倫理」という地平があり、それは二項対立の関係にあるわけではないものの、正義の倫理が持つ男性的な「理性・自己・心・文化」という特性に対して、ケアの倫理が持つ女性的な「感性・関係・身体・自然本性」という特性を打ち出して、その後者の要素がいかにこれまでの近代文明においてないがしろにされていたかという点が議論となっている。

Who cares? (誰がケアするのか)という英語が「知ったこっちゃない」という反語で利用されるのが象徴的だが、そもそも自立した近代的自我というのは誰もがケアされて育てられてきたわけで、「正義の倫理」の存立基盤が「ケアの倫理」にあるといっても過言ではない。それに対して、ケアの倫理の要素が少なすぎるという点が議論の出発点となっている。

思想良心の自由を旨とする近代的自我、つまり正義の倫理に立脚して近代文明が組み立てられているわけで、ケアの倫理の要素を近代文明に組み込むことは近代文明の改革にもなる。

筆者は安全保障や気候正義においても、ケアの倫理が革新をもたらす点を紹介しており、視野の大きな文明論にもなっている。確かに、ケアと暴力は両立せず、地球環境が厳しくなるとケアが困難になる。また、生産力に過剰に資源を傾斜した経済運営が、ケアに資源を分配することで地球環境に負荷が低減されることも想定できる。その点で説得力がある。

補足、提案、懸念事項

本書に記載はなかったが、評者が一哲学学徒として補いたいのは現代哲学との関連性である。つまり、20世紀前半のドイツの哲学者であるハイデガーの哲学において主体から世界内存在への転換が見られましたが、ハイデガーは世界内存在の特徴として「気遣い(care)」を挙げていたことが特筆される。世界に対峙する自己ではなくて、世界のただなかであれこれとケアする存在としての人間像が『ケアの倫理』に先行して考えられていたことも必要な知識として補う必要があると考える。

ハイデガーは不倫やナチズムへの関与など非常にスキャンダラスな人物でもあるので、関連して取り上げることが困難なのは理解できるが、現代哲学との関連性で理解する必要はあると考えるので補足する。下記論文と書籍が参考となる。

榊原哲也『ベナーはハイデガーから何をどう学んだのか』
榊原哲也『医療ケアを問いなおす シリーズ ケアを考える ─患者をトータルにみることの現象学』(ちくま新書)

もう一点、補足して考えたいのは、ケアの倫理の社会的実装である。本書は倫理学と文明論の点において非常に優れた見解を表明しているが、その具体的実装についてコメントがなかった。

生産至上主義的なエートスからケアのエートスへと人びとを促す方法の一つとして、私はベーシックインカムを提案したい。ただし、無条件・一定額・恒久的に支給されるベーシックインカムではなく、参加所得としてのベーシックインカムである。

A.アトキンソンによって表明された参加所得とケアの倫理との相性は良いと評者は考える。ベーシックインカムが支給される主体は近代的自我を想起させる一方で、参加所得を受け取るためには、子育てや介護などのケア労働に従事することが必要である。つまり、生産労働からケア労働への文明の転換、そして近代的自我から世界内存在としてのケアへの人間像の転換を謳うためにも、参加所得を導入することが必要と考える。

最後に本書への懸念事項として、移民の問題が触れられていなかった点が挙げられる。アメリカ合衆国や西欧の多くの国ではケア労働は移民の仕事になっているのが実情であることがパンデミックの時に明るみになった。

意地の悪い見方をすれば、日本以外の先進諸国のアッパーミドル階層ではケア労働を移民に押し付けただけだと評することも不可能ではない。

移民は近年分断をもたらす非常に深刻な問題となっており、移民に頼らないケア労働への転換が必要であると評者は考えている。そのためにも、参加所得を実現して、国民国家がケア労働に日を当てて、文明の転換を行いながら、自らケア労働を担う意志を明確にする必要があるだろう。ケア労働こそ価値があることの証明として参加所得を導入するのである。

ベーシックインカムは財源について揉めるのが常であるが、物品税を復活させたり、ブルシットジョブや不労所得に課税するなど方法論は何とでもなるのが実情である。そもそも、日本国はパンデミックの時に何の課税もせずに累計100兆円調達できて、金融市場に何の混乱もなかったのである。

必要なのは国際的な国家と人びとの合意だけである。生産労働からケア労働へと文明の転換を図ることへの全世界的な議論の盛り上げである。そのことが焦眉となっている「分断」に架け橋を渡し、気候正義を実現することとなるであろう。


著者の紹介

岡野八代(オカノ ヤヨ)
1967年三重県生まれ.早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了.博士(政治学).
現在―同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授.
専攻―政治思想,フェミニズム理論.
著書―『シティズンシップの政治学――国民・国家主義批判 増補版』(白澤社),『フェミニズムの政治学――ケアの倫理をグローバル社会へ』(みすず書房),『戦争に抗する――ケアの倫理と平和の構想』(岩波書店),『ケアするのは誰か?――新しい民主主義のかたちへ』(共著・訳,白澤社),エヴァ・F.キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』(共監訳,白澤社),アイリス・M.ヤング『正義への責任』(共訳,岩波書店)など.


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