ヘブライズムと機械論的世界観(2)

機械論的世界観がキリスト教社会においてどのように展開してきたのかについてお話します。

ヘレニズムが支配的であった哲学において、ヘブライズムが浸透し始めた中世哲学の命題は「唯名論vs実在論」、いわゆる普遍論争です。この論争はショーン・コネリーが主演を務めた映画の原作『薔薇の名前』でも取り上げられました。

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唯名論は、「概念」について、概念とは実在ではなく個物の名であり、分類上つけるタグにすぎず、実在するのは個物であるとします。 それに対し、実念論は、概念こそ実在で個物は仮象にすぎないとしています。

普遍論争は、一般的には善のイデアと個物の関係について論争されたプラトンとアリストテレスの議論の蒸し返しに過ぎないとされることが多いですが、大きく異なるのは「実在」をめぐる論争であるということです。「善」をめぐる論争ではありません。「善」ですらタグ扱いされてしまう論争なのです。

真実とは何か?という問いが、「存在」にフォーカスされている点が重要です。そして、この「唯名論vs実在論」の理論的枠組みはそのまま近世哲学のカントにおいても引き継がれています。

その後、トマス・アクィナスという中世哲学を総合した哲学者の『神学大全』は「存在」(エッセ)の形而上学であると言われるのが定説です。

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この「存在」を、ありとあらゆる存在者をありのままに見るという思想態度が機械論的世界観につながります。

そして、これは物理学の発展に大きく寄与しました。中世まではアリストテレスの自然学に制約されて天動説が主流でしたが、存在優位の思想が徐々に後押しして「自然をありのままに没価値的に観察する」という思想態度が芽生えました。

次回は、近世における機械論的世界観の展開について説明します。

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