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再論:作用因と目的因

もう2年半前になりますが、新約聖書におけるマルタとマリアのエピソードから作用因と目的因の血肉化を試みたことがありました。

興味深い動画を見ることができたので、作用因と目的因の現代的な意味を今一度論じてみます。

作用因:自然科学、近代社会の論理
目的因:人文学、最後に残った厄介なもの

と分かりやすく分類されていますし、マルタとマリアのお話しよりもスタンダードな理解です。自然科学の発展は、まさに目的因をそぎ落としたところから始まっていますし、特に物理学など運動を分析する自然科学において顕著です。天体の運動をすべてシンプルな方程式で説明するニュートンの運動方程式はその醍醐味でしょう。

自然科学は全てを作用因で分析を進めて華々しい成果を上げて、人間精神の領域に至るまで進出してきました。カントが人間は物自体を認識できないとすることから始まり、目的因を人間精神から除去し続けて、ニヒリズムに至りました。ニーチェが「神は死んだ」と言って、人間精神が目的因を完全に失ったわけです。

ニーチェ(出典:Wikipedia)

上掲動画の中でも言っていますが、辛うじて現象学が「志向性」という概念をもとに目的因の可能性を探っている程度です。ちなみに、目的因とは、会社や仕事のためにとか、家族のためにとか、あるいは地域コミュニティのために尽くしているという個々人の人生の目的ではなく、以前も紹介したアリストテレスの不動の第一動者のように、人間全体、生物全体を貫く共通の行動原理です。

さて、問題は人工知能です。人間と生物・植物は志向性があり、そこには目的因が突き動かしている様子を見て取ることができます。ニヒリズムの現代では、不動の第一動者のような目的因が姿を取って見ることはできませんが。

それに対して、人工知能からは目的因を見て取ることは困難ですし、仮にロボット技術とAI技術が進化して人や動物の形を取って、いわゆる不気味の壁を越えて、鉄腕アトムやドラえもんのように動いて話せるようになったとしても、それはあくまでコンピュータの計算結果に過ぎず、何らかの目的に突き動かされてのことではありません。

いや、そこが問題ではないのだ。実際に人びとの生活の役に立って、目的っぽいものに突き動かされた生命の躍動のように見えれば十分で、それは私たちの世界に衝撃を与えるのだというツッコミが想定できます。

この点について検証するためにも、上掲動画のもととなった『AI原論』について次回は論じていきます。


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