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ヘブライズムの哲学~存在の優位性(1)~

前回の「哲学史の見取図」において、ヘブライズムの哲学の特性について「存在の優位性」を挙げました。ヘレニズムは、それに対して「善の優位性」の特徴を持っていることも説明しました。

ヘレニズムの「存在の優位性」は、その出発点となった旧約聖書に見ることができます。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
『創世記』(1:3~4)

「光あれ」として、光の存在が先に来て、その光を見て「良し」としたところから存在の優位性を見ることができます。

モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
出エジプト記(3:13~14)

難解な表現として知られている「有って有る者」ですが、存在としての神の性格を表すものと解すればとりあえずはよいと思います。

私たち日本人にとっては、このヘブライズムの存在をめぐる志向性は理解しがたいところがあります。ヘレニズムの目的論的世界観も時代のかけ離れたための理解しづらさがありますが、存在の優位性よりは受け入れやすいところがあります。

その理解しがたさに少しずつアプローチしていくためにも、存在の優位性の世界観を解き明かしていくつもりです。

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