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トレインキルンの二度目の窯焚き

ようやくトレインキルン築窯の念願は叶って、先日2回目の窯焚きが終わりました。 

陶芸の森で使うため動線や薪のサイズを考えながら、様々に出て来た変更点を現地で考えながら、何度も図面を書き直した。

アメリカの薪窯に興味を持ったのは二十代。
図書館で見つけた白黒写真のものだった。なかでも箱状の燃焼室を別に設けて、箱の上から薪を入れてフタを閉めるその窯にとても興味をもった。

それから30歳になって自分の穴窯を作る事ができた。しかし窯焚きは失敗の連続で、アメリカ薪窯の事はすっかり忘れてしまっていた。
数年経った頃
SNSが登場して、インスタグラムを見る様になると、ハッシュタグで見るANAGAMAは全てアメリカからのもので、日本の穴窯は一つもなかった。

「一体これはどう言うことだ?」

と調べ始めて、思い出したのは二十代の頃に見た白黒のアメリカ薪窯の写真だった。
どうしても見に行きたくなった頃、陶芸の森とアメリカクラフトスクールの交流事業が始まり、単身アメリカに行くことになった。
それが2017年のメイン州ヘイスタックスクールだった。

ヘイスタックの陶芸にいたマブチさん。
英語の喋れない私にとても親切にしてくださって、ベーグルをそのままかぶりついている私に「それ、半分に切ってトーストして、ハムと野菜挟んで食べると美味しいよ」と教えてくださった。

お別れするときに「学会で、今度京都に行くから信楽にも寄るよ」
とおっしゃるので「ぜひどうぞ!」と気楽に言ってお別れした。
「学会で行く」?と言う言葉が気になって
日本に帰って調べて見たら、なんと彼はスタンフォード大学の物理教授!😳でした。

物理学者の彼がなぜヘイスタックに来ていたかと言うと、個人的研究の対象として陶芸をされていて、その時期たまたまヘイスタックに来られていたのでした。

その翌年、マブチ先生は信楽へスタンフォード大学の学生二十人と一緒に来られて彼と再会することができました。

学生の皆さんとは、子供達とピザパーティーをして楽しく過ごしました。
子供達も大喜びでした。

マブチ先生は後日お一人で再訪してくれ、PCを開いて先生が興味を持って研究している陶芸の資料を見ながら説明してくださった。


その時に私がアメリカに行った時、さまざまなタイプの薪窯を見られた中で、「トレインキルンと呼ばれる窯を見る事ができなかった事が残念だ」
とお話ししました。

するとマブチ先生はアメリカ各地でトレインキルンを焚いたり、カナダでは作った事もあると聞き驚きました。

おかげで窯の構造なども詳しくお話を伺う事ができました。


信楽や伊賀の町をご案内して先生とお別れしました。


するとその翌年。
スタンフォード大学からメールが来ました。
「一度スタンフォード大学に来ませんか」と言うお話。

マブチ先生の「自分がいつも焚いているトレインキルンを一緒に焚こう」と言う内容で、私は即答で「行きます!」とお返事しました。

2019年の五月。再びアメリカへ。
親切なマブチ先生は空港まで通訳の学生を伴って迎えに来てくれました。
改めてスタンフォード大学でマブチ先生が興味を持っている陶芸の研究内容を今度は通訳を介して詳しく説明していただきました。

数日間は、スタンフォード大学でワークショップなどをしながら過ごさせていただき、マブチ先生とユタ州立大学へ飛行機で移動。
そこにはトレインキルンの設計者であるジャンニーリー先生が居られ、4つの違うタイプのトレインキルンがあったのでした。
設計者ご本人に会うことができて私は感激しました。

四つのうち、「レギュラータイプ」と呼ばれるトレインキルンの焼成に参加させてもらい、窯を焚きながら日本語の堪能なニーリー先生直々にトレインキルンについての知見を伺う事が出来ました。

さまざまな資料を見せていただき、トレインキルンの初期型の設計図をいただく事が出来ました。

「いつか信楽でトレインキルンをつくりますね」

とお話ししてユタを去る事となりました。

日本に帰ってきて、私は早速、自分の窯場にトレインキルンを作るべくレンガの手配を始めました。

しかし作業をはじめてすぐ、自分一人で窯を作って焚いて居てもこのご縁を繋がる事にならない気がして来ました。
それならばそもそものアメリカへの縁を作ってくれた陶芸の森で窯が作れないか、ダメ元で相談してみようと考えるようになりました。

そうすれば陶芸の森からヘイスタックで出会ったマブチ先生へ、マブチ先生からユタで出会ったニーリー先生、そしてトレインキルン。
最後にそのご縁が信楽へ帰って来てつながる様に感じられました。

陶芸の森へトレインキルンの築窯の相談に行くとありがたいことに「県民講座」の形での築窯の許可が出ました!

しかしいざ築窯の時期が近づいてくると、コロナ禍の世界となり、うまくいかない事ばかりが続きました。
暗く鬱屈した世界の中でも、私は「信楽でトレインキルンが実現するのなら」と嬉しくて仕方ありませんでした。

延期に次ぐ延期の果てに、ようやくトレインキルンを作りはじめたこの日は、感動で身体中が喜びでいっぱいでした。

こうして書いて居ても、本当に奇跡的と思えるような僥倖やご縁の繋がりで、自分でも信じられません。
マブチ先生はじめ、ニーリー先生、陶芸の森の皆様へのご縁とご恩をこの窯が繋いでくれた様な想いを、私は持っています。

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