見出し画像

阿目虎南さん「About the stone」(「MAN STANDING vol.2」Cプログラム@サブテレニアン)

会場であるサブテレニアンは、細い木材を縦に一列ずつ張り巡らせた壁に、リノリウム?と思しき床、そのどちらもが色味や照りは違えど黒、というか墨色で、平土間式の空間に設えられた客席の下手には本棚も並んでいる。天井はパイプ(バトン、と言うのだろうか)が縦横に張り巡らされており、開演前の準備として、人ひとり分くらいの長さで、ゆるい螺旋状の、2、3本束になっている針金みたいなものが、劇場の方によって、上手の壁近くに吊るされた。
暗転の後現れた阿目さんは座面の黒いパイプ椅子を持っていて、それを舞台奥の壁、だいたい真ん中辺りに立てかけた。オーケストラの緩徐楽章と思しき曲(冒頭で金管が目立っていた気もしたし、聞き覚えもあったので、ブルックナーかイギリスの作曲家かな…と思って帰宅後調べたけれど、よくわからなかった)がかかる中、ゆるやかに踊り始めた阿目さんは、サングラスに花柄?のパンツにこれまた柄物のシャツと派手だけれど、舞踏の時よりも日常に寄った姿で、サングラスはすぐにはずしてしまった。
全編英語の本作を聞き始めた直後は、少しでも聞き取ることにばかり注意が向かって、冒頭の、ノイジーなジャズっぽい曲と共に始まった長台詞では、タイトルの「About the stone」や、「誰もが道や…や…で踊るともなく踊っている…」みたいなことを言っていた?ような気がしているけれど、ろくに聞き取れていないので定かではない。
しかしそれは、阿目さんが奥に立てかけたパイプ椅子を中央へ持ってきて座った辺りから変わってきて、ヨガマスターの如く椅子に胡坐をかいた阿目さんは、どうやら客席へ向かって「身体の各部を動かせ」だの「折りたため」だの指示をしている雰囲気で、その様子はレクチャーパフォーマンスのようでもあり、6月の公演「G感覚」でも行われるワークショップを先取りしているようにも見える。英語が聞き取れないことはあいかわらずだけれど、その英語が所作を、そして所作が英語を説明している、というか、言葉と動作が(少なくともこのシーンにおいては)同じ方向を向いていることが徐々に見て、聞き取れてくるにつれ分かるとはなしに分かるようで、この感覚は、外国に行っていると、何となく普段よりはそこの言葉が分かるし話せるけれど、帰ると急速に失われる、みたいなこととも近しいようで、言語は言語だけでなくて、身体から発せられている、そんな当たり前のことが、しかしありありと思い出される。
身体から言葉が、声が発せられていることは、意味内容だけでなく声の調子からも伝わってきて、例えば阿目さんが上体を大きく倒しながら話していると当然声はくぐもって、横に倒したり、後のシーンで足を壁に掛けたりすると、声はもはや別人のように高くも低くもなる。それは、声が身体と言う管を空気の通ったふるえであって、管がしなったり曲がったりすれば響きも変わること、そしてその響きから、逆に肌の下の内臓のねじれすら窺い知れることへと通ずる。舞踏でも以前から、腹の底から沸き立つ空気のかたまりが喉を抉じ開けるような呻きから、詩句の朗唱まで、声(の獲得?)が探究されている印象で、さらには、ゴンブロヴィッチの「コスモス」などにも俳優さんとして出演されていて、舞台上で声を発する姿は何度も拝見しているけれど、今回は双方を合わせたようでもあり、またそのどちらとも違っており、強いて言えば、舞踏でも演技でもなく演奏だったのかも知れない。

パイプ椅子に座っている辺りからは、曲もよりコンテンポラリーになり、マリンバ?のような打楽器の音がぽろんぽろんと鳴っていて、さらにはそこに車の走行音めいた喧噪も徐々に混じっていく。それも終わると今度は阿目さんの声を録音したものが流れ始めて、どうやらそれは冒頭の長台詞らしい。その音声は、次第にフーガの如く追いかけっこしつつ重ね合わされていって、声というよりは響きそのものへと変容していく。そんな響きを打ち消すように「Void!」と叫んだ阿目さんは、パイプ椅子とダンスを始めて、その姿は、今年の「アーツさいたま きたまちフェスタ」で、自作の自転車作品と共に踊り、新たな乗り方を模索した姿とも似て、新たな座り方を編み出すようだった。開いたパイプ椅子を逆さに立て、むしろ自分が椅子のための椅子のようになったり、あるいはワニに噛まれたように半身をパイプとパイプの間に差し挟んだりした後、パイプ椅子は畳まれて、衣装も脱ぎ捨てられた。

この頃からは、先ほどよりは古風なジャズ、サックスの息の長いフレーズが聞こえ始めて、今度は舞台上手の壁寄りに吊るされた針金の方へと移動し、それを身体に巻き付け引っ張り始める。じきに針金は天井のバトンからはずれて、阿目さんはそれを横に目一杯ひろげた両腕に巻き付けたので(足の指にも、束になった針金のうち一本をひっかけていたはず)、磔刑にも見える。この時に、「antagonism」という単語が耳に飛び込んできた気がして、それが勘違いでなければ、阿目さんの身体と針金の「拮抗」した状態のことを指していたのかも知れない。それは描写と言えば描写かも知れないけれど、言葉が動きを一方的に描写しているのではなくて、発せられた言葉の与える”殻”を動きが破り、その動きがまた次に出てくる言葉を変化させて…というようなやりとりが感じられる。もちろん台本も振り付けもあるはずだけれど、仮に運命が決まっていたとしても知らなければ決まっていないに等しいことと同じく(保坂和志さんの何かの文章にあった)、観客にとっては、流れている曲ですら今この場で生成されているも同然で、それは時間を共有しているからこそ湧く生々しさ、説得力なのだと思う。

針金とのダンス(連続ソロ公演シリーズ「Glowing Ember」でも、縄で結わいた石や、もじゃもじゃとした針金…といった様々な小道具とデュオを踊っていて、その系譜にも見える)の終わり、というか以降のことはすでにだいぶ思い出しにくくなっているけれど、最終曲の、激しい打楽器のリズムが原始的なロック?がかかり始める頃には針金はもう纏っていなかったと思う。
奥の、はじめにパイプ椅子が立てかけられた辺りからやや上手寄りの壁に足を掛け、上体を床につけた阿目さんは、折り曲げた自身の身体を使って「ここは北海道…」「3000㎞」という列島のイメージを観客に共有すると、立ち上がり、体重(60㎏?)と比較して見せて、それは、今年の3月に行われた同シリーズの最終回「Glowing Ember X」にて、「祖国…日本…174センチ…腰に乗せた47都道府県…」と日本語で口ずさんだことの続きめいて響く。

この一人芝居は全編英語で、ここまでの台詞も全て英語だし、この後の台詞、「Conan Amok!」 「Butoh!」と名乗りを上げたり、頭に銃、あるいは錐に見立てた右手を当て「penetration!」と叫んだりということも全て英語で成されていたけれど、打楽器のリズムが大きく激しくなるにつれ、ただでさえ(私にとっては)ところどころだった文章は散り散りになって、単語の一個一個がかろうじてさざれ石の如く飛び込んでくる。そんな中何度も聴こえてきた「consciousness」をという単語をあえて「意志」と訳せばそれは「石」に通じるし、「ストーン」はイギリスで使われている体重の単位でもあるらしく、「About the stone」は意志についての考察でもあり、重力についての思索でもあり、それは6月の「G感覚」へと続いていくのかも知れない。

そして、どこかの場面で床に背をつけた阿目さんが「vacuum」と叫びながら身体をのけ反らせていたけれど、それからしばらくの後、おそらくそろそろ終わりというところで、深く吸い込むような呼吸音が(たしか録音で)聞こえてきて、この呼吸が阿目さんをのけ反らせていたのかと変に納得してしまった。こんな風に前後関係が錯綜して、というより公演時間中はある意味すべて同時みたいに思われて、これがどうなってああなって…という厳密な順序が些末なこととなっていく感覚は、阿目さんのこれまでの舞踏でもそうで、重力は時間をゆがめるらしいけれど、ダンス、舞台…広くとらえれば芸術にも、因果をねじ曲げるような力がきっとあって、それが魅力のひとつなんだと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?