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阿目虎南さん・谷口舞さん・國安雄さん「G感覚」(サブテレニアン,2023/6/21〜25)

北区在住の者としては、隣接する板橋区のサブテレニアンに、ゆるゆるとした散歩の調子でも40~50分で行ける気楽さを感じるけれど、それにしても4日の内に2度訪れたのは、どうしても本公演(23日~25日)とプレワークショップ(21日)の両方を体験したかったからだ。
阿目虎南さんのワークショップに参加したのは、分子生物学研究者である岩﨑佐和さんとのコラボ作『ダンス×生物学「軸の形成」』(SCHOOL,2022/3/25~3/27)、それに先立つこと約半年前の2021年9月25日に行われた『ダンス×生物学「軸の形成」ワークインプログレス』がはじめてだったけれど、その時は、岩﨑さんによる前半30分のレクチャーを踏まえた45分のワークショップ(その内10分ほどは阿目さんと谷口舞さんによるデモンストレーションだった)で、今回のワークショップが2時間の“本格的”なものであることを鑑みると、むしろはじめてのようなものだった。

サブテレニアンに伺うのは、5月の『MAN STANDING vol.2』、その中で行われた阿目さんの「About the stone」を目当てに見に行った以来で、その時の記憶がまだ色濃く残る中、平土間式の空間で、もともと演者と観客が終始近しいとは言え、それでも舞台側に立ち、これから2時間この位置で身体を動かすというのは不思議な心地だった。
観客席側にはいろいろな機材やベンチ、箱馬、それに黒い座布団などが寄せ置かれていて、本公演の時とは違う“オフ”の顔を覗かせているけれど、一方、舞台上手には、観客席から見て一番奥の壁に沿うかたちで、天井から白い流木のようなものが吊られていて、その棒は、写真スタジオのホワイトホリゾントを舞台に繰り広げられた「身体の地平、夢幻の標」(STUDIO・45,2021/10/10)、そこで「ラ・マンチャの男」の槍のごとく地に突き立てていた“杖”を連想させて、その時の軋る音までも再生されるけれど、同一のものかは分からない。“杖”の半ばには、黒々とモジャモジャした針金があって、これも、独舞公演シリーズ「Glowing Ember」(2022/6~2023/3)で幾度も登場した小道具と似ていて、阿目さんご本人が美術も担当なさっているからこそ、こうした物たちが残響のようにこれまでの公演の名残を漂わせており、それが、時間の厚みを感じさせる。
上手の角にも赤い縄が既に設えられており、あたかも縛られていた何者かが抜け出た後のような感じで崩れた網目を描いていて、完全な“オフ”ではなく、明後日に迫る本公演に向けた、静かな昂まりがたしかにあった。

参加者は私を含めて7人で、まずは谷口さんの指導の下、準備体操から始まった。
足を投げ出し、両手を後ろについて、ため息のように胸中で凝った空気を吐き出して始まることが象徴するように、身体から余計な緊張を取り除くことがこのワークショップ全体に通底していたようで、立て膝に近い姿勢で、上半身の重みだけでアキレス腱をゆるゆると伸ばしたり、四つん這いのポーズから左手を右膝へ差し入れ(それに伴い、頭は左耳を下にして床へ着地する)、右足の重みを使って手首のツボを刺激したり…という体操は、単に身体をあたためる以上に、まさに“G(ravity)感覚”を調律するようだった。

その後は阿目さんにバトンタッチして、ここでも、まずは大の字に寝そべり深呼吸し、身体の余計な構えを取り払うところから始まった。しばらくすると、阿目さんは参加者ひとりひとりの下へと向かい、両手で腰のあたりをやさしく揺さぶり始め、その時の、あたかも静かなプールの水面に浮かんでいる際に、そこへかすかに広がる波紋が身を揺さぶって、身体と水との境界がひとときほどけるような心地を味わい、記憶し、その内的感覚を、今度は自分で再現することが求められた。
腰を動かすのだから当然腰回りの、そしておそらく全身の名も知らぬ筋肉を使っているのだろうけれど、“私”が動かすのではなく、あくまで周りに、それこそ波うつ水面に動かされるイメージを身体に送り込んでいって、結果として動くように試みることは、改めて身体の重さを感じさせて、それは、イメージを介在させることで身体からひととき遠ざかって、“他者”として接するのと近しい状態になるからかも知れない。

イメージは舞踏にとって重要らしく、このワークショップでも強調されて、身体の各部(頭頂部、中指、腰…)が糸で吊られて引っ張られたり緩められたりするイメージや、丹田から出てきた“球”が、身体の内側を沿うように転がっていくイメージは、『ダンス×生物学「軸の形成」ワークインプログレス』の短時間の中でもたしか教わっていて、日常の中でも戯れに試みたりしていた(『「軸の形成」WIP』の時は、大樹のイメージなんかもたしか教えてもらった)。
そして面白いのは、たとえば、立った状態で腰を回しはじめ、その回転をだんだん胸部から首、そして頭へ…と移していくという動きでも、それを身体の中で回転する球の運動の結果として行うか、外から糸で引っ張られた作用によるものとしてイメージするかで、どことなく動き自体が変わるということで、だからと言って、人の動きを見て、そのどちらかを弁別できるみたいなことはなく(もし出来たら、それはもはやジェスチャーゲームで、踊りとは別物になってしまう)、それはあくまで自分の動きを自分で俯瞰した時に限られるけれど、細部までイメージできるものの方が、動きとしても滑らかになる(ような気がする)という点で、身体とイメージが連動していて、その感覚は、普段の、意図・命令→身体という図式とは全く違っている。だからこそ、身体とイメージのつながりには、どちらかが先行してしまえばたちまち断ち切れてしまうようなか細さが感じられて、翻って、訓練を積んだ舞踏家の滑らかさに驚く。

“皮袋”であるところの身体に、徐々に水が貯まっていって、その水位の上昇によって膝が、腰が、背筋が伸びていくというイメージを実践しようとしても、なかなか背骨のS字までは動きの一要素として考慮に入れられないけれど、壁際に立って、お尻から腰、肩甲骨…と、倚りかかる点を少しずつ上げていくとやりやすい、という阿目さんの助言に従ってやってみると本当に背骨のS字が感じられて、体内に水が貯まっていくというイメージが、現に存在する壁によって補強されることは、“球”や“糸”を想像する際に、その物理的な特性を知っている必要があること(学問として、というより、経験知としての、身体化された物理学といった印象)とも通ずるようで、本公演とプレワークショップの関係も、別に予習みたいなものではなくて、後日の本公演から受けるであろうイメージを、大きく羽ばたかせやすくするための足がかりみたいなものだったのかもしれない。

本公演はその2日後の金曜日からだったけれど、私は土曜日に予約していたので、当日までにすっかり筋肉痛は引いていた(そもそも、谷口さんによる整理運動のおかげか、痛みはほとんどなかった)。
その日も自宅から歩いてサブテレニアンに向かうと、寝不足のせいか眩暈気味の身体に、ワークショップ後しばらく続いていた心地よいほてり、その名残が思い出されて、身体を動かすということは、身体で思考する、記憶することなのかもしれない…なんてことを考えている間に到着していた。
3列設えられた客席の最前列、中央からやや2席ほど上手寄りに座ると、あたたまって汗ばんだ身体にはよく効いた冷房がむしろ肌寒いくらいで、日頃持ち歩いている、そろそろクリーニングに出したい薄ピンクのカーディガンを羽織って落ち着くと、ようやく舞台の様子が目に入ってきた。

客席から見るとサブテレニアンは横長の空間で、上手の壁、腰高の位置にはヴァイオリンが赤い金具に掛けられ、その下には、白い繊維質な紙?(今年の「アーツさいたま きたまちフェスタ」に展示されていた自転車型の作品《ケンタウロスの末裔》、その後部に取り付けられていた人体の表面と同じ素材?)の貼られた、蜜柑箱を立てたくらいのサイズの小箱があって、その表面には、丸いウロコみたいな朱色、黄色、メタリックレッド…の“花びら”が散らされ、床にも落ちている。
その奥にはもっと大きな、長持ぐらいの大きさの箱があって、同じように白く包まれ、花びらが表面にも床にも盛大に散りばめられている。箱の上面右寄りには穴が開いているようで、そこから縄が4本、前面の半ばあたりまで垂れ広がっている。そして左の角には黒いデスマスクめいた面が引っ掛かっている(これまた《ケンタウロスの末裔》で、取り払われたサドルのあたりりから“生えていた”白い顔みたい)。

箱の後ろの天井からは、ワークショップの時から“杖”がまっすぐ垂れ下がっていたけれど、今はその時とは違っていて、それは“杖”の半ばから白い紗(燦然CAMPのスタジオであり劇場でもあるA5yl/燦然光芒、その舞台に張られた“天幕”を思い起こさせる)が床とほぼ平行に、下手の出演者入退場口の方までピンと延びていて、その張力で傾いでいた。白紗は波打つように裁たれていて、阿目さんが立った時、ちょうど頭部のあたりに位置するくらいの高さで張られていた。杖と布の結節点には、もじゃもじゃとした針金が付いていて、薄暗くてよくは見えないが、そこから床へ青い棒?みたいのも垂れている。そこから床へとスーッと視線を落とすと、床には黒いコード?が這っていて、上手の角には赤い縄が、ワークショップの時とほぼ変わらない様子で張り巡らされている。
舞台を横切る白紗と交叉するように、下手奥の方には天井から、同じような紗が地面へと垂れていて、その“足元”少し上あたりに、下手端に2台並んだ、青白い照明の内ひとつが当たっている。
暖色の照明もあって、それは、上手角の赤い縄の近くにまず一台、横切る白紗へと向けられており、二台目は、“杖”と白紗の結節点の上あたりにあって、これまた横切る白紗を染めている。そしてもう一台は、ヴァイオリンを真上から照らしている。
たしか開場後5分も経たないうちから座っていたけれど、気づいた時には「Take On ME」がかかっていて、それからマレウレウ?、ややポピュラーっぽいオーケストラ曲、古風な感じのジャズ…など、阿目さんの公演ではいつものことながら、よい意味でごった煮と言いたくなるほど色々なジャンルの曲がかけられている。

曲がフッと終わると、阿目さんによる場内アナウンス(これも定番で、当たり前ながら毎公演ごとにやや調子が異なるので、これを聞くこと自体がひとつの楽しみでもある)が流れ、それも終わると数瞬の後、暗転。暗闇の中には、目印と思しき淡緑の光が3つ、かすかに瞬いている。しばらくすると、暗闇からなにか、カホンやコンガ、小鼓のような打楽器を手でリズミカルに叩くような音が響いて、灯りが戻ると、マグリットの《恋人たち》のごとく布を顔にまとった國安雄さんが、上手の大きな箱に座っており、その箱を叩いていた(顔の布は、開演前に下手の入退場口へと延びていた白い布のようで、残りは床へ垂れ下がっている)。
國安さんは、「G感覚」の宣材写真と同じくスーツ姿ながら、ボタンを留めたジャケットはどうやら素肌に着ているらしく、靴も履かずに裸足になっていた。白い木箱の左角にそうして座る國安さん、その隣には阿目さんの、白塗りを施していない首から上だけが見えていて、どうやら箱に空いた穴から顔を出しているらしい。谷口さんは、「舞踏山月記」の黒ずくめの姿から一転白、というより白金色の、紐がたくさんついた衣装を着ていて、たしか腰の辺りで手を広げて立っていた気がするけれど、そのポーズは「舞踏山月記」でもしていて、印象的だったからこそ記憶の中で混じりあってしまったかもしれない。

と言うより、ここから先も、一応の時系列に沿って書いていくつもりだけれど、それでも踊りの時間というのは特殊なのか、いつの間にか動きが進展していたり、時系列的には後のことが、何故か前のことの“結果”に見えたりと、一方向的な流れというよりは、むしろ場というか、“現在”と認識される時間の幅が、踊りの間ずっと持続しているような感じがあって、さらにそこに色々な連想や過去の公演の記憶まで賦活されるものだから、順序良く書いていくことはかなり難しいけれど、逆に言えば、その曖昧で錯綜しているところに、踊りを見ている時の面白さがあるのかも知れない。

國安さんが木箱を、そして阿目さんの頭を打楽器として奏でていると、阿目さんも「ア゛~」という声をそこに重ねていって、臓器という管を震わせて音を発しているという点でパイプオルガンのようで、それは、全編英語の独り芝居「About the stone」において、身体を折り曲げながら発せられた台詞の声色、その変化が、肌の下の内臓のねじれすら伝えていたこととも通ずるだろう。
するとにょきにょきと、ヴァイオリンの弓が阿目さんの首元から伸びてきて、それを受け取った國安さん(その時には顔から布を外していた)は、導かれるように壁のヴァイオリンへと向かい、手に取り、演奏を始める。そこには「G感覚」の「G」である「G線上のアリア」の旋律がたしかに感じられるものの、むしろ「管弦楽組曲第3番」中の1曲として聞くことが多い私には改めて低く妖艶で、ヴァイオリンというよりヴィオラのようにも響く。そして変奏を重ね続いていく演奏は、同じく「G」を頭文字に持つ「ゴルトベルグ変奏曲」を連想させる。その音楽に合わせて、というより音楽に動かされるように谷口さんも動いていて、ヴァイオリンから音が発せられる度、その一瞬前に、あたかも身構えるかのごとく洩れる「ハッ」とも「フッ」ともつかない谷口さんの声が印象的だった。
阿目さんはすでに穴の中へ隠れていて、先ほどまで國安さんが顔に巻いており、今は垂れ下がっている布を、じわりじわりと穴の中から引っ張りこんでいるらしい。
國安さんは、顔に布を巻いた冒頭からここまで、長めの前髪を下ろし、身を傾いで演奏していたこともあいまってほとんど表情が見えなくて(阿目さんから弓を受け取った直後、壁に掛けられたヴァイオリンの方を見やる一瞬は見えていた気がする)、ずっと上手の壁際で演奏していたけれど、顔をこちらに向けないまま中央の、谷口さんの近くへと音を絶やさず近づいて行く。そこからにわかにこちらをまっすぐ見据えると、演奏の激しさは一段と増して、谷口さんも壊れた人形のように激しく動く。そして二人は舞台の上手と下手に分かれ、また素早く舞台を横切って入れ替わり…と、大きく動き始めて、客席間際を過ぎ去る國安さんの背中が白粉で白茶けていて、よく見るとサブテレニアンの墨色の床も、谷口さんの足跡で白く色づいている。

そんな中ふと谷口さんが箱の上に飛び乗ると、照明が変わった?ようで一瞬時が止まったような感じになった。この一瞬止まったような感覚はこの後も何度かあって、もしかするとこの一瞬が、配られたハンドアウトに付されていた、

「Ⅰ 洞穴 Grotto」
「Ⅱ 畝須(うねす)Unesu」
「Ⅲ  浮き椿 Floating camellia」
「Ⅳ 喧噪 Hustle-Bustle」
「Ⅴ gut渦 Vortex gut」

という“楽章”間の切れ目で、ここからは「Ⅱ 畝須(うねす)Unesu」なのかも知れない(畝須とは、クジラの下あごからおなかへと続く、バンドネオンやアコーディオンのふいごのような蛇腹器官のことらしく、ここでプランクトンなどを漉しとっているらしい)。そして、覚えている限りでは、白い大きな木箱に乗ったり、あるいは箱から出たりした時にその“切れ目”が訪れていたようで、もしそうなら木箱は重要な存在(現に、終演後のトークで、阿目さんはご自身の対になる存在として白い箱を語っていた)で、これまたトークで語られていた重力波、平坦な空間をゆがませる程の質量を持った星のようなもので、お三方の動きはまさにその波か、或いは翻弄される矮星だったのだろう。

これまでヴァイオリンの音に踊らされていたようだった谷口さんは、うってかわって箱の上に座って高みの見物といった風情で、ヴァイオリンを引きながら引きずられるように動く國安さんをニヤニヤしながら見る感じは、「舞踏山月記」でチェシャ猫のごとく阿目さんを翻弄した時と通ずる。
さらに、國安さんの後ろに回った谷口さんは、弓を持つ右手を引かせて演奏させる。そのときの「ハッ」は、先ほどの身構えるような「ハッ」とは違って、寧ろ指揮するようだった。

箱の穴から黒い腕が飛び出すと、また場面が変わったよう(「Ⅲ  浮き椿 Floating camellia」だろうか)。再登場した阿目さんの顔は谷口さんと國安さんのデュオの合間に白く塗り直されており、穴から身を躍りだそうと半身を飛び出させ苦闘する姿はケンタウロスみたいで、「アーツさいたま きたまちフェスタ」で、自身の自転車型作品《ケンタウロスの末裔》に乗り込もうとした一連の試みとも通ずる(そうした“苦闘”に対して、穴から顔を出した直後、その隙間から濛々とあふれ出たスモークは、軽やかに宙へ昇っていった)。片方の足が箱の輪郭から飛び出ていたので、箱の死角となった一面は開いていたと思われる。
箱から生れ出た阿目さんは、今度はそこから大地へ降り立とうと、箱の上に座りこんだ足を伸ばして、床に幾枚も散った花びら(タイトルからして椿だろうか)の上に左足の親指を置き、水面を滑りゆくように花びらを動かしていく。
そして別の花びらに再び足指を置き、また繰り返した…と思いきや花びらへ飛び移るように床へと降り立って、平行に張られた白紗(谷口さんか國安さんが、退場の際に張り直していったのだろうか)へ、上体を床につけた状態から足を伸ばす。その足先が触れるのと呼応するように声も発せられて、冒頭、箱の中から発していた声が、阿目さんの臓器を管楽器として感じさせたのに対して、今回はむしろピンと張られた紗への接触の方に意識が向いて、あたかも阿目さんが弓となり、弦を震わせているようだ。そのまま今度は立ち上がって、首と両腕の間に“弦”を挟み、左右に動いて掻き鳴らす。
この、“弓”と“弦”のデュオは思いのほか短くて、すぐに次の動きへと移っていったけれど、「G感覚」の中でも印象的なシーンだった(つかの間だったからこそ、という面もあるかもしれない)。

そして、その次に現れた、虎やヒョウを思わせる“獣”に変じたシーンは、公演の度に形を変えて現れるモチーフだから、という理由もあるけれど、今回印象的だったのはその所為だけでなく、私も獣への“変化”を経験していたからだった。

と言うのも、ワークショップの締めくくりとして体験したのが、この“獣”のイメージだったからで、人間が、進化の中で失った尾てい骨から再び尾っぽが伸び、手は鋭い爪の前足に変じ、緊張感を秘めた弓なりの背中は、喉笛を守るように顎を引いた頭部へとつらなり、その頭頂部のあたりに爛々たる目を持った獣…というイメージにはだいぶ私の脚色が入っているが、兎に角、思い思いの“獣”となって、暫しゆるゆると歩き回ることが求められた。
お互いぶつからない程度にしか周りを見ていなかったから比較はできないけれど、それでも“獣”の姿は人それぞれだったようで、当たり前ながら、それまでにイメージしていた“糸”や“丹田から出てきた球”なんかも人それぞれ違うはずで、単に身体を動かす上手さ、イメージする力の高さ、みたいな尺度で他の参加者さんを眺めていたけれど、イメージそのものがそもそも違っているということは、同じ公演を見ながらも、今まさに感じていることや、駆け巡っている考えが観客ごとに異なる不思議さ、豊かさとも通ずるだろう。

しならせた背中に獰猛さを湛えた阿目さんは、彷徨した挙げ句、箱の角に付いた黒い顔と睨みあって、白い箱に生えた黒い顔は、黒い四肢に白塗りの顔の阿目さんと好対照で、國安さんと谷口さんが、楽器と旋律のごとくペアであるのと同様、阿目さんとこの白い箱も、一対でひとつの存在らしい。
箱の上に飛び乗って、“洞穴”へ顔を突っ込んだところで暗転。

明るくなると、阿目さんは既に退場していて、舞台上には誰もいない。しかしすぐに、下手から現れたのは國安さんだったけれど、先のジャケット姿ではなく、ハイウエストのブリーフに、白い靴下(足先と踵の部分だけ灰色)を履いていて、ヴァイオリンは持っていなかった。下手寄りの天井から床へと垂れた白い布に、何かよく分からない、おそらく架空?の言葉を早口で話しかけていて、そのままゆっくりと上手の方へ、身ぐるみ剥がされ途方に暮れているような足どりに、道のりの遠さ、厳しさがにじむのに対し、発せられ続ける言葉は力強い。ここからは「Ⅳ 喧噪 Hustle-Bustle」らしく、付された題の通り、信号の音や車の音、クラクションなどがけたたましい。そして箱の上に立ち、穴の中を覗き見た…あたりで阿目さんと谷口さんが下手から登場して、國安さんはその間に箱へ吸い込まれてしまったのか、見えなくなっていた。

「Ⅳ 喧噪 Hustle-Bustle」と「Ⅴ gut渦 Vortex gut」の切れ目は、今まで以上にあいまいで、おそらく、國安さんが箱を覗きこみ、阿目さん・谷口さんが登場したところだと思うけれど、だとすると「Ⅳ」は短くて、それは、古典的な交響曲が、最終楽章の前に、急速でやや滑稽味のあるスケルツォを配することと近しいかも知れない。

現れた阿目さんと谷口さんは、腕を閉じたり広げたりする、比較的振付らしい振付で同期しているのが「Ⅳ 喧噪 Hustle-Bustle」の諧謔を受け継ぎつつも、音楽は途中からひずんだ電子音になっていて、「即興二番」(@CON TON TON,2023/2/11)ではじめて聴いた國安さんのエレキヴァイオリン(國安さんの演奏を、という意味に加えて、エレキヴァイオリン自体、見るのも聴くのもはじめてだった)の、どこか“はすっぱ”であやしげな旋律が思い出された。

その前奏に導かれるように、黒いパンツを履いて、柄物のシャツを羽織った國安さんが、箱の脇から登場し、その手にはエレキヴァイオリンが握られていた。
アコースティックヴァイオリンが人体だとしたら、エレキヴァイオリンのシルエットは音符のようで、そこから伸びたケーブルが、開場時から見えていた、地を這う黒いコードだったらしい。演奏は前半以上に激しく、もはや「G線上のアリア」かもわからなくて、アンプで増幅されていた音色に加え、エレキヴァイオリンの弦を擦るそのものの音も薄く聴こえている。無伴奏ヴァイオリンソナタ(バッハはもちろん、バルトークとか、ヒンデミットとか…)を聴いていると、一台なのに明らかにふたつの音が同時に鳴っているのが素朴に不思議で、そこにいつも素人らしい感動を覚えてしまうのだけれど、原理は違うものの、この演奏も“一人二役”となっていて、この“一人二役”というのは、「G感覚」全体のモチーフでもあった気がする。
ここまでの覚え書きにも記した通り、阿目さんは冒頭では素顔だったのに対して途中のソロ(あるいは箱との“デュオ”)からは白塗りで、この最終楽章に至っては、黒々と雄々しく眉が描かれていた(途中でより長く強調された気がする)。
もちろん、それに勝るほど象徴的なのは國安さんの変化で、冒頭のタキシードにアコースティックヴァイオリンというクラシカルな出で立ちから、“身ぐるみ剥がされた”状態を経て、前開きのシャツにパンツ、エレキヴァイオリンという、よりフランクな格好に変じることは、「舞踏山月記」からも通底する変容のテーマだった。

ヴァイオリンの音色自体も、アコースティックとエレキでは当然違っていて、そしてそれは、前者が中空のボディを共鳴させることで、いわばそこを起点として音の波を発生させるのに対して、後者は、本体から発せられる音はあるものの、つながったアンプで増幅されている音がメイン(因果としては逆だけれど、目一杯開いた蛇口から迸る水柱が水面に作り出す激しい波紋と、そこからあちこち飛び跳ねた水滴が周囲に咲かせる可憐なさざなみみたいな)という違いでもある。
舞台上のどのあたりに(アンプ)スピーカーが配されていたのかはわからないけれど、エレキヴァイオリンの音は、「Ⅲ  浮き椿 Floating camellia」で流れていた電子音楽や、「Ⅳ 喧噪 Hustle-Bustle」の具体音といった楽曲同様、舞台全体に広がるように聞こえていて、プレイヤーのひとりとして舞台上から音を発することと、もちろん演奏は舞台上ながら、空間を包み込むように音を響かせることとはやっぱり違っていて、単に演奏スタイル、使用楽器の違いという以上に、次元や位相の違いとなっていて、空間の中に音があるというよりも、空間自体が鳴っているような感じで、それは、Gravity(重力)と 「G線上のアリア」という、ふたつの“G”が重なり合った瞬間と言い換えることができるかもしれない。

そして“一致”や“同期”も、「G感覚」で重視されていた要素だと思われて、國安さんが”変容”して現れる直前の、阿目さんと谷口さんの息の合ったデュオはもちろん、冒頭から、阿目さんの腕が箱から伸びると谷口さんが屈んだりと、視野の端と端で同時に動きが進行していることが間々あって、それは、エレキヴァイオリンがケーブルを介してアンプスピーカーと繋がっていること、それら双方から音が出ていることと通ずるようで、そう考えると、お三方の間に見えないコードが幻視される心地で、上手の角に掛けられた赤い網、そのたわんだ網目も、重力で歪んだ空間の象徴なのかもしれない。

機能としてだけでなく、象徴としての意味も孕んだエレキヴァイオリンのケーブルは、たしか阿目さんが身に巻き付けながら箱の方へと持って来ていた白紗(これまで何度も張られたり垂れたりしているあの白紗で、その繰り返しは、切れては張り直される弦のようだ)と、紙縒り相撲の要領で交差していて、國安さんが下手の方へ進むとケーブルが布を引っ張って、阿目さんへとその力が伝わって均衡が保たれるそのこと自体も、谷口さん・國安さんペアが象徴していた音としての“G”と、阿目さんが、白い箱をはじめとする舞台美術との絡みで表していた重力の“G”の邂逅を表しているよう。

その間に谷口さんも箱の方へと近づいていて、角に付けられた黒い顔にキスしたと思うと(その直前の、一瞬の表情が印象的だった)、飛び乗った箱から今度は阿目さんに背負われ、数歩歩いた舞台中央で、倒れこむように下ろされていた。それもひとつの“出会い”で、そもそも谷口さんは、阿目さん・國安さんが“変容”していくのに対しむしろ一貫としていて、その安定感は、「舞踏山月記」で阿目さんを翻弄していた時の姿と重なる。
終演後のトークで、阿目さんは谷口さんの役について、「クジラのような…」と形容していたけれど、まさにそんな感じで、谷口さんの存在は、重力加速度(g)のように“一定”(場所ごとに誤差程度のばらつきはあるそうだけど…)で、背負われていたことが鮮やかに示す通り、可視化された重力だったのかも知れない。

谷口さんと國安さんが箱の裏にはけると、阿目さんは舞台中央で一人静かに踊る。そこへ、眩いシーリングライトが手前から斜め奥へと射して、その光の帯にやさしく押されるように、バロック絵画のごとく強い陰影を湛えた身体は静かに倒れこんでいって、「G線上のアリア」の溶けいるようなラストが、音もなく響いては消えていくような終幕だった。


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