6月1日 朝たち

朝起きて寝室の扉を開けて、キッチンダイニングのカーテンと窓を開けてまわる。キッチンでお湯を沸かす。トイレに行き顔を洗って、窓際の作業机につき、白湯を飲みながら窓の外に目をやると多摩川の水辺に白く首の長い水鳥がたくさん降りてきているのが見える。その向こうにはよみうりランドの観覧車となにかのアトラクションと思われる塔のようなもの。

6月1日。晴れ。

最近はとてもよく寝てしまう。この数日はだけどようやく苦なく眠れているので(やっぱり断食がいいのかもしれない)眠れるときは眠ればいいやと思っている。今日は二度寝をして、二度目に目が覚めてからも小一時間ベッドの中でごろごろした。朝は気持ちがいい。

眠れるときは眠ればいい。のんびりできるときはのんびりする。観たい映画が二本あり、今日は映画の日だし天気もいいし出かけるのもいいなと思うけれど、お店の仕事が連勤明けのお休みなので一日家にいたい気持ちが勝っている。午後に一本ウェブの打合せがある。映画は明日行けたらいいな。

きのうは谷中という街に友人・荒井佑実の個展を観に朝から出かけた。谷中という名前を聞いてもそれがどこにあるのかまったくわからなかったけれど、古き良き懐かしの風情が残るその街は日暮里と千駄木の間にあった。会場は小さな古民家をそのままギャラリーにしたような場所だった。

荒井さんはわたしと同い年で、実はわたしがいま働いているセレクトショップでわたしの前に働いていたのが彼女なのだった。お店にはちょくちょく行っていたのでよく顔を合わせては世間話をしたりして彼女がアーティストだということは見知っていたのだけれど、実際に作品を観たことはなく、彼女がどのようなアートを作るひとなのかをきのうようやく知ることができた。

6畳一間の空間に配置された布や紐や、植物、土などを有機的に組み合わせた作品が、陽の光を浴び、網戸から吹き込む風に揺れていた。

わたしの周りにはたくさんの“アーティスト”がいるが、彼女のような、いわゆる“アート”とか“美術”(これは言葉が本当に難しいけれど)、美術館に展示されるような類の作品を作るひとはそういえばあまりいないなと、きのう彼女の展示をみながら気がついた。

音楽や言葉など、そう考えてみると自分に近しい表現というのは随分直接的で、彼女のようになにをどのように作ってもいい(もちろん彼女には彼女の制約があるのだろうけれど)ような場合、着想からゴールまで、どのように道筋を作り到達するのだろうかとその工程にとても興味を持った。今度ゆっくり聞いてみたいなと思う。改めて表現というものの力というか可能性というか、そしてその尊さとか、それらを胸にぼーっと抱き、ポストカードとリソグラフを一枚ずつ買って会場をあとにした。

この間は茅ヶ崎美術館にも行けたし、観たい映画もあるし、本も引き続きもりもり買っていて、インプット欲が戻ってきていて嬉しい。楽しいし、充実感と安堵感がある。本は結局5冊ほど(休んでいるのを入れればもっと)を併走して読んでいる。

帰りに谷中の商店街を歩いて、お惣菜屋さん(お肉屋さん?)で野菜のコロッケとさつまいも天(知らない街でパン屋さんを見つけたら入らずにはいられないのと同じように、初めて行く商店街の軒先でコロッケを売っていると買わずにはいられない病、さつまいも天はお会計中に目について咄嗟の欲が出て一緒に買ってしまったのだけどやっぱり余計だった、こういう無駄な欲をいつも出してしまう、食い意地)を買い、さらに歩いた先にアップルパイのお店を見つけ、吸い込まれるようにして入り、定番のアップルパイにするか「大人のアップルパイ」(シナモンたっぷりラムレーズン入り)にするか迷って後者を買って帰った。コロッケとおいも天はお店でお昼に食べ(天は油がきつくて、結局衣を剥がして食べるという暴挙、とても反省している)アップルパイは夜家に帰ってから食べたのだけど、シナモンてこんなにたくさん入れてもいいのか、と思うほど大量のシナモンが投入されており、最早わたしの知っているシナモンの味を超越していると言っていいほどのシナモンだった。大きかったので半分は明日かなと思ったけれど、そんなことできるはずもなくやっぱり丸ごと平らげて夜な夜なぱつんぱつんになった。

結局原稿を書けないまま6月に突入してしまった。曲もなんとなく作ったけれど中途半端になっている。ずるずるずる、でもそういう自分を責める気持ちはまったく湧かないいまなのでそのことを良かったと思う。今日ものんびりやろう。

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