2月21日

DOMMUNE配信のアーカイブを観ていた。

自分どうこうではなく、当日はちゃんと聴けなかった部分もあるし振り返りの意味でも観た方がいいなと思いつつ、でも自分が映って喋っているのを観るのは疲れるからたぶん観ないだろうなと思っていたのだけど、観る必要が出てきてしまったので今朝はひとまず冒頭を観た。

本当のことを言うとわたしは自分の声があまり好きではない。歌っているときの声はいいと思えるけれど、話しているときの声はなんか嫌だなと思う。DOMMUNEを観ていても、もっといい声で落ち着いて喋れないものなのかと思った。進行に必死で声までまったく気が回っていなかったな。

わたしは元々ひどいあがり症で、10代のころは人前で話そうとして声が震えたり、客席にいるひとが目に見てわかるほど足が痙攣を起こしたりするようなタイプだった。でも子供のころは目立ちたがり屋で人前に出るのが好きな部分もあった気がするけれど。いろんなことをやっぱり意識してしまうと上手く出来なくなるのだよな、なんでも。

まぁとにかくそんなんだったから、それにしてはよくやってるなとも思うけれど。

放送の何日か前、あるミュージシャンの方と電話で話す機会があった。以前オンライン上で少し言葉を交わしたことがあるだけで面識はなかった。とても尊敬している歌い手の方でわたしは緊張していたけれど、とても気さくに話して下さり、要件に加えて、曲聴きましたよ、よかったですよ、と言って下さった。そして、ちょっと言葉を忘れてしまったのだけど、こういう音楽をやっていて、こういう(SOSやWNCの)活動をすることにはきっといろいろ葛藤もあるんじゃないかと勝手に心配になってしまったんですけど、と言った。

そのことについてずっとこの数日はなんとなく、考えるともなく考えている。

たぶん、いわゆる「パブリックイメージ」みたいなことなのだろう。わたしは音楽に関わらず、見た目から受ける印象と実際の人柄にギャップがあるということを昔からずっと言われてきた。音楽をはじめてからも、わたしという人間を知っているひとには「こういう音楽をやっていることは意外だ」と言われ、わたし自身よりも音楽を先に知ってくれたひとと話すと「こういうひとなんですね、意外ですね」というようなことを度々言われた。

音楽から連想する人間性。人間性から連想する音楽。

わたしが言っていることややっていることは、わたしの音楽からは離れているものなのだろうか。わたしの音楽はわたしにとってはわたし自身だから、当たり前に全部地続きで繋がっているものだけど、でも側からみたらやっぱりそういうものでもないのかもしれない。でもだからって、わたしが主義主張を声高らかに叫ぶような音楽をやっていればこれらの活動と親和性があるのかというとなんかそういうことではないでしょう、と思うけれど。自分ではわからないのでだれかわかりやすく教えてほしい。

きのうは夜中に変なスイッチが入ってしまい家具や雑貨などを急にいくつもネットで買った。ついに椅子を買った。木の椅子一択のつもりだっけれど、アイアンのヴィンテージに一目惚れしてしまいすぐに注文した。パイプ椅子のような造りのもの。意外な選択だけど、色味がとても可愛いのだ。あとは壁に掛けられる一輪挿しをふたつと、ヴィンテージのアイアンフェンスという謎の大きなオブジェみたいなものを買った。謎だけどなんだかとても惹かれてしまい欲しくなってしまって。あとチーク材のボール。サラダ入れる用。そんな深夜。最近は焼き菓子を焼くこととこういうちまちました買い物で精神バランスを保っている。届くの楽しみだな。きのうは飲んでしまっていたけれど、直感はちゃんと働いていたはず。と信じたい。

せめて家の中を愛せる良い空間にすることで日々を良くしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?