10月16日
きのうはWe Need Cultureで省庁要請と記者会見。溜池山王の駅を出て(わたしの家からだと国会議事堂前よりも溜池山王からの方が行きやすい)議員会館まで歩く道もすっかり体に入っていて、あぁそうか、と思った。官邸前の立派な竹林がわさわさと風に揺れているのを見てこれも全部税金なのだよなぁということを思った。官邸入り口付近にはものすごくたくさんの警察官が立っており、彼らはいったいなんのためにそしてどういう気持ちでここに立っているのだろうかと考えた。交差点の角に立っていた若い警官がじっと見てくるので失礼だなと思った。
きのうわたしのしたことと言えば、会場で配る資料を組んだり机を運んだりあとは写真を撮ることくらいだったけれど、それでも長丁場だったからか一日が終わって家に帰るころにはすっかりくたくただった。22時過ぎにはベッドに入りすぐに眠ってしまったけれど、2時前に目が覚め、例によって明け方まで眠れず、仕方がないのでココアでも飲もうと思い起き出してココアを作り飲んでみたら変なスイッチが入ってしまいトーストを焼いて食べ、さらにさつまいものタルトを食べるという暴挙に出たのだった。そうして少しやることをやり、明け方から昼近くまで眠った。
そうして今日は再び議員会館へ。文化庁の継続支援事業についての意見交換会に参加させてもらった。起きてからあまりに体調が悪く、のろのろしていたら到着がぎりぎりになってしまい、部屋に入ったときにはすでに議員さんが話し始めているところだった。We Need Cultureの三団体から各ひとりずつと、あとは演劇関係のいろんな団体の方が大勢来ていた。今日はSOSの他のメンバーはみんな都合がつかなかったのでわたしが行くことになり、きっと借りてきた猫のように大人しく座っていることになるだろうと思っていたのだけど、予想に反してけっこうよく発言をした。そして意外とちゃんと喋ることができた。よかった。場慣れしてきたのかもしれない。そうだといい。
なかなかだけど要望通りというわけにはいかなそうで、どうしたものかなぁという感じ。しつこく言い続けることしかないのだなと改めて思った。両方の方向に。つまり、国にも、当事者たちにも。会話。対話。コミュニケーション。自分に出来ることはなにか。必要なことはなにか。いろいろなことを考える。
議員会館を出て、今日は電話をかけることに家を出たときに決めていた。絶対に繋がらないことがわかっている相手だから、呼び鈴を鳴らして、やっぱり繋がらないことを確認して、そうして満足しようと思っていた。だけどLINEで電話をかけようとしたらアカウントが削除されていて、画面に表示された「Unknown」という文字を見たらかなしみが一気に現実味を増して心に押し寄せてきて、そうなるともういろんなことがぜんぶかなしくて、涙があとからあとから出た。今日は久しぶりによく泣いた。
夜は家族とお寿司を食べた。少し遅れての誕生日祝いをしてもらった。ケーキはこの間もう買ってもらっていたのだけど、帰りに当たり前のように「じゃぁケーキ買いにいくかー」と誰ともなく冗談半分で言い出し、駅ビルの中にあるお店のショーケースをみんなで眺めていると、弟が買ってくれるというのでわたしがフルーツケーキを選ぶと姉がチョコケーキも食べたいと言って、結局ホールケーキをふたつ買って帰ったのだった。我が家では誕生日のお祝いのケーキは小さな個人サイズのものなら最低でもひとり2個というのがいつからかの慣習なのであるが、ホールケーキ3つは新記録なのではないか。今日はもうケーキはないと思っていたからそのつもりでお寿司を食べてしまっていたのだけど、帰ってちゃんと両方の種類を食べた。とても美味しかった。姉の彼がBill Evansのレコードをくれた。嬉しい。
今日はアチコさんにも電話をかけようと決めていたので議員会館を出たあと電話をしたのだけど、話し中で繋がらなかった。すぐあとにかけ直してくれたのだけど、その間にかなしみが溢れてしまい、だけどそれを自分でもうまく捉えることが出来なかったのであぁこれはちょっと話せる感じじゃないなと思い、自分からかけておいて折り返しの電話に出ることが出来なかった。代わりにメッセージを送って少しやりとりをした。アチコさんも10月が誕生日だから近々おいしいものを食べてお祝いしようと話した。わたしはアチコさんのことがずっととても好きだ。
すっぽりわたしの心を覆っているかなしい出来事にはだけどどうやら続きがあって、周囲のざわつきでそんな気がして、迷ったけれど勇気を出してあるひとに連絡をしてみたが話せるときがくるまで待ってというのが返答だった。つづきがあることだけがわかり、だけどそれが何なのかはまったくわかりようもなく、それはばかみたいに気の遠くなる、まったくどうすることも出来ない気持ちのすることだった。「みんな辛い」とか「あのひとの方がもっと辛い」とか、そんなのには意味がない。全然大丈夫じゃないが、大丈夫じゃなくても生きなくてはいけない。心がなんだかもう散り散りだ。
こんなこと読まされて読む方もきっと迷惑だろうなとも思うけれど。でもここはそういう場所だから。
いま植本一子さんのエッセイ集を読んでいて、それにはブログの抜粋も掲載されているのだけど、気持ちのいいほど赤裸々で、あぁ書いてもいいのか、と思わせてもらっている。これが例えばおじいちゃんが死んだとか、恋人と別れたとか、そういうことだったら出来事ごと書けるのに、そしてそうだったらもっと楽なのに。
だけど思うけれど、かなしめるときにはかなしんだ方がいいし、泣けるときには泣いたほうがいい。
想いがここにあるよ、ということをせめて伝えられたらいいのになと思う。
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