9月26日

今月ももう終わるのですね。そんなことを思えば今年だってもう終わりじゃないか。なんてこった(が、どこで覚えたのか先日久しぶり会った友人の娘2歳の口癖になっておりそれが大層可愛くて「やれやれ」もレパートリーに加えてもらおうと試みたけれど失敗に終わった)。

金曜日にソファが届いた。13時から16時の間の配送と言われていたけれど、13時を過ぎてすぐにインターフォンが鳴った。割と幅があるからドアに引っかかって入らなかったらどうしようと少しだけ心配していたけれど何の問題もなく一瞬のうちにそれは運び込まれ、部屋が一気に狭くなったような気がしたけれど、ソファの位置を決めてそれに合わせて模様替えをしたらびっくりするくらい素敵なそして快適な部屋になった。嬉しくて嬉しくてこの間ひとつ買ったばかりなのにさらに観葉植物を買い足すなどして、浮かれている。早速ソファで本を読んでいる。嬉しい嬉しい。実物を見ずにネットでみて直感だけで決めたけれど、これ以上ないくらい、わたしの部屋にぴったりと収まった。直感がいつもいちばん正しい。そうして今度は読書灯が必要になったからまたそれもポチポチ買うなど。本棚は作ることを決めた。散財が続く。

さよこさんがTwitterに夏物語の感想を書いていたのをみて、わたしももう一度読み返したくなり、読み返しはじめた。子ども、親子、命、を巡る、ひと言で「こう」とは言い切れないテーマ。おととし島にいたときに読んだから、いま読んだらきっとまた違う感情を抱くだろう。なにを想うだろう。

さよこさんとはじめた往復書簡「みちわたるしんたい」のわたしの原稿はあっという間に書いたけれど、くっつけたいと思っているフィルムの写真のデータが入っているハードディスクがどうにも調子が悪く、というか、もうダメかもしれず、しかしそれにはこれまでの作品のデータから何から、ほとんどすべてが納められているのであって、もしダメだったらどうしよう、と思うけれど、過ぎ去ったものが必要になる機会はまぁなくはないだろうけれど死ぬほど困りもしないような気がしている。どうだろうか。今朝別のハードディスクへのデータ移行を試みて、残り280日からスタートして14日まできて止まったそこで家を出てきたのだった。どうなっているか。

ちょっと信じられないほどなにもしていないままにただただ日々が過ぎている。目の前にある圧倒的な空白になす術なくほとんどただただ飲み込まれているそしてそれを誤魔化すように言い訳をするようにかろうじて本を読んでいる。今度の金曜日は久しぶりに友達たちが家に遊びにくる。素敵になった部屋を見せられて嬉しい。なにを作ろうかと考える。涼しくなってきたから野菜のグラタンと、あとめずらしくパスタでもしようかな、そしてデザートはチーズケーキのつもり。ぜんぶヴィーガンで作る。この間、彼女たちのうちひとりに肉を食べないと言ったら「そんな生活絶対無理!」と言われたから、意外となくても美味しいし楽しいよ、ということを伝えられたらいいなという気持ちも込めて。前菜の細々はこれから。土曜日は天気が良ければ撮影。あと木曜日は午前中髪を切りに行く。

わたしは実体のないままふわふわふわふわとただ存在させられているから存在しているのであって、最早それが比喩とは思えないくらい本当に実感としてそう感じていて、そしてだけどそんな存在をこの、世界と呼ばれる大きな、目に見える、この、これと、繋ぎ止めているものはなんだろうか、ということを考えれば、それはやっぱりどう考えても言葉と音楽を紡ぐ行為に他ならず、でもそれはわたしはもう苦しいし疲れた、と思う、何度もそう思う、でもそれでも書きたい作りたいという想いは確かに存在している、そのことを感じている。

今日の月はとっても色っぽくて綺麗。途方もない気持ち、本当に、わたしはずっと。


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