5月24日 揺れ

今朝方、祖母が亡くなった。父方の祖母は少し離れたところに住んでおり、この十数年は年に1度会うかどうかだった。この何年か、どうだろう、もう10年くらいだろうか、入退院を繰り返し、最近はずっと施設に入っていた。

ときどき会いに行くと、わたしたちを認識できることもあればできないこともあったり、ごはんは食べていると聞いていたけど会うたびに痩せていき、ほとんど骨と皮のようだった。だけど今日はちゃんとお化粧もしてもらい、とても綺麗な顔をしていた。

あれは去年だったか、たぶん春か夏、とても良い季節の良い天気の日に、父と母と姉と4人で車を走らせ施設に会いに行った。その日はわたしたちの問いかけにときどき頷いてみたりしていたけど、わたしたちのことはよくわかっていないようだった。うつらうつらしている祖母のベッドを囲んで話をしていると、祖母が突然大声で歌い出した。どんな歌詞だったかな、ぱっとは思い出せないのだけど、明らかに軍歌のそれとわかるものだった。すごく驚いた。繰り返し繰り返し、その歌だけを歌っていた。

息子の顔も声もわからなくなっても、こんなにもはっきりと意識に存在し続けているその軍歌というものが祖母にとってどんなものだったのか、だけど今はもう知る由もないのだった。

戦争を知っているひとたちがいよいよいなくなってしまう。わたしはもっと聞いておかないといけないことが沢山あるのではないか、ということをこの1年くらいますます強く思っている。のだけど、なかなか行動に移せないまま日々が過ぎている。

言葉って疲れるよなぁと思う、Twitterという媒体はとても便利だし実際わたしにとってももはや生活の一部であるけれど、なんかもう限界なのではないかという気がする。というか、これまでの社会における様々な仕組みやモデルや本当にもう全部が潮時なんじゃないだろうか。だけど新しい世界を希求するとき、例えばノアの方舟とか恐竜の絶滅とかのように、一度終わらずして新しくなれることなんてあり得るんだろうか。

誰かを平気で傷つける言葉をいとも簡単に使い捨てるその神経をわたしは心底軽蔑するけれど、だけど自分がそうじゃないとどうして言い切れるだろう。わたしの選んだ言葉に、ひとつの悪意もなかったか、本当にそうか。

わたしの言葉だって誰かにとっては凶器かもしれない。それも大切な、身近な誰かにとっての。だったらもう言葉なんてなくなればいいのに。

だけどこんなときこそ、優しい毛布みたいな言葉を、本当は持ちたい。自分のためじゃなくて、誰かのための言葉を持ちたい。あなたのための、言葉を持ちたい。

表現、

揺れてる。

今日は、今日も、ずっと。

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