10月2日

些細なことが重なって、きのうも今日もとても楽しかったのにそれでも今日はとても心細い心許ない気持ちになってすっかり悲しい気持ちになって帰宅した。

やっと湯船にゆっかり浸かったら首がやっと動く。何日か前に髪を切ってくれたけいちゃんが、そういうのがよくわかるひとに「いろいろの気は首や肩や腰に溜まりやすい」と言われたと言っていた。お酒とお塩を湯船に入れるといいというのは聞いたことがあったけど、身体的にいいだけじゃなくて、そういう意味でもいいのらしい。やってみようと思うのにお酒を買って帰ってくるのを毎日忘れている。おにころしのパックが脱衣所にどんと置いてあったら面白いなと想像する。

お風呂に入りながら本を読んでいたけど、文字を追いながら頭の中でいろいろの思考がぐるぐるとしていて、読んでも読んでも全然読めなかった。諦めて髪の毛をわしゃわしゃ洗っているとき、ふと「入れ物と中身がちぐはぐなのだな」と思った。はっきりとそう言葉で思った。中身が、全然入れ物に追いつかない。いつか、たまたま出会った手相をみられるというひとに、本来持っているものはものすごいのに現実が追いついてないというようなことを言われたことがあり、とても、とても悲しかった。「どうしてわたしはこうなのだろう」と思うとき、「でもそれがわたしだから仕方がない」と思う、そう思う訓練をしている、でも、本当はそんな自分でありたくない。でも変えられない。変えられるようには出来てない。わたしはわたしから出ることができない。勝手に与えられて背負わされた“これ”から逃げることができない。わたしはわたしを持ち切れない。そのことが苦しい。

ちーちゃんとさぼーるに行き、テラスの席に座った。ちーちゃんはビールを頼み、わたしもビールが飲みたかったけど仕事前だったので我慢して、コーヒーとお腹が空いていたので野菜のサンドイッチを頼んだ。真っ白いパンを久しぶりに食べた。セットでコンソメのスープが付いてきて、チキンのコンソメだったのでちーちゃんに飲んでもらった。ちーちゃんの前にブリキのカップと一緒に置かれたアサヒビールの缶は「TOKYO 2020」仕様のもので、スーパーやコンビニではもう売れないからこういうお店に残りものを流しているのかなと思った。わたしのアサヒ不買運動はなんとなく続いてる。その後のアサヒの対応を知ろうとすることもなく。ちーちゃんがテーブル越しにわたしの写真を撮って、「こうやって撮っておけばあのときのんちゃんとコーヒー飲んだなって思い出せる」と言った。ちーちゃんがそうして写真を撮ることと、わたしがこうして日々日記みたいなものを書くことはとてもよく似ているなと思った。

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