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天国へ行ったおばあちゃんへ。


2021.6.13   永眠 享年96歳


昨日おばあちゃんは天国へ旅立ちました。
天国へ行ったおばあちゃんへお手紙を書きました。
(ばーちゃんと呼んでいたのでそのように書きます)


おばあちゃんへ

ばーちゃんのぞみだよ。覚えてる?

ばーちゃん今どうしてる?
挨拶回りしてるのかな?
じーさんとは会えたのかな?

私にも会いにきてくれる?

魂の存在になったから私のところにひとっ飛びできてくれるかな?
なんか今来てくれているような気がするよ。
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ばーちゃん、私はばーちゃんとは小さい頃から離れていたからこんなお手紙を書くのは初めてだね。きっときっとこのお手紙は届いていると思うのだって私のこと大好きだったでしょ?会いに来てくれていると思うから。

私たち家族は静岡、ばーちゃんちは新潟だから車でいつも行っていて10時間くらいかけて会いに行っていたね。
小学生の頃はそれが楽しくてワクワクしていて夏は海キャンプ、冬はスノボ三昧の日々を過ごしていたね。

もちろんばーちゃんたちは参加することはなかったけどいつも私たちが帰ってくると思いっきりとっても優しい笑顔で出迎えてくれたのを思い出すよ。


「のんちゃんおかえり」と言っていつもハグをしてくれたね。

そんなばーちゃんがわたしは大大大好きだったよ。


年に2回しか会ってないから生涯であったのはほんと数十回だったと思う。
幼少期は会いに行っていたけど中学生になったら私たちは部活が忙しくなり会いに出かけたりできなくて、高校生になったら家族では行かなくなり私とお母さん2人で行くようになったよね。

しばらくして私が結婚して子供が生まれて会いに行ったね!ひ孫の事も可愛がってくれていつもいつも笑いかけてくれてたね。


じーちゃんがもう天国へ行ってしまった頃から急にばーちゃんも元気がなくなっちゃって施設で暮らすようになったね。


それから施設に会いに行くようになって私の子供達のこともちゃんと覚えていて嬉しそうで時には心配をしてくれていたね。


毎年夏に会いに行くようになって夏が来るたびに心を踊らせているばーちゃんがいた。私たちが来るのを心待ちしていたよっていつも言っていたよね。


しばらくしたら痩せ細っていて、いつも元気なばーちゃんの面影がなくなっていって、それから毎年行くたびに痴呆が進んでいって……

ついにみんなのことも分からなくなっていっちゃったよね。。。

ばーちゃんは今までとっても苦労をしてきて、じーちゃんにもキツく当たられていたことも知っていたから、施設に入ってばーちゃんは甘えられる相手ができて幸せなんじゃないかなって思ったよ。


今まで甘えることなんて出来なかったもんね。


ここ数年間のばーちゃんはまるで赤ちゃんみたいでとっても可愛らしかったよ。ふふふ。

私ね、ばーちゃんが天国へ行ったって聞いてばーちゃんと過ごした幼少期の日々を思い出していたの。


当時の記憶としては私たちが帰ってくると聞いたらとっても嬉しくてご馳走を用意してくれる。
大好きな新潟産コシヒカリをたくさん食べれる。
おじーちゃんが朝、わがままなわたしの為にパンを買ってきてくれる。
何かを作るのがとっても得意だったから裁縫や編み物を教えてくれたりもしたね。
ばーちゃんが作った「枝豆もち」が大好き。
ばーちゃんが作った笹団子とちまきが本当に美味しくってこれも忘れられない。


「枝豆もち」も「笹団子」も「ちまき」もばあちゃんが作ったものに勝るものがなくって。。。
多分この先もこんな美味しい物は食べられないんじゃないかなって思うよ。


冬は寒くて凍え死にそうになりながらお風呂に入ったし、トイレはいわゆるボットン便所で落ちそうになったこともあったよね笑


そんな昔ながらの家に住んでいたばーちゃんたち。
新潟へ行って帰ってくるとなぜか一つ成長したように感じるくらい何かをいつももらって帰ってきていたの。


旅行とはまた違う感覚。


育ちはずっと静岡だけど生まれは新潟だし2歳くらいまでは住んでいたこともあってどこか懐かしさも感じる。


そんな素敵なところだね。そういえばばーちゃんはどこで生まれて育ったんだろう。聞いたことないや。今度教えてね。


ばーちゃんと私は血の繋がりが実はないんだよね。(笑)
そんなのどーでもいいんだけどね。

聞いた時は少し驚いたの。
当時、小さな小さな私のお母さんを養女に迎え入れたって聞いたよ。


お母さんを助けてくれてありがとう。
これも運命の一つだったんだよねって思うよ。


だってさ、ばーちゃんがお母さんを養女に迎え入れてくれなかったらお父さんとも出会うことはなかったわけでしょ?


ということは当然私も弟も生まれても生まれてこなかったんだもん。


ばーちゃんはとっても苦労したってお母さんから聞いたの。
百姓だったから妊娠中も畑仕事をさせられて何度も流産をしたっていうことも聞きました。そしてたまたま出会ったのがお母さんだったんだって。

当時その話を聞いたとき、私はまだ高校生だったんだよね。確か1年生。


とても衝撃を受けたことを覚えています。お母さんはいろんなことをそのとき私に話してくれたの。多分高校生になった私は受け止めれるって思ってくれたんだろうね。本当にいろんなことを話してくれたんだよ。



衝撃事実がたくさんあったうちの1つ、ばーちゃんとお母さんは実は血が繋がっていなかったと言う話と流産を沢山したと言うお話。



ばーちゃんはきっととっても悲しかったと思うし私も悲しかった。けどね、出会ってくれてありがとうって思ったの。

当時の私には衝撃的すぎてしばらく放心状態だったし多分いっぱい泣いたと思うんだ。それは私が悲しいとかじゃなくって…
なんだろうね。わかんないんだけど。やっぱり出てきたのは「ありがとう」だったと思うよ。



ばーちゃんは大正14年生まれだったよね。
西暦1926年。約100年前だよ。

戦時中はすでに立派な大人だった。きっといろんなものを見てきたんだなって思う。いろんな話をすることはできなかったけどさ、「生き方」で見せてもらったよ。


ばーちゃん今までお疲れ様。
大好きなじーちゃんと会えてるかな?


わたし、今ね、レイキヒーリングができるから魂の存在となったばーちゃんも癒すことができるんだーー♫
すごいでしょ?

ばーちゃんは近くで見守ってくれているよね。


(いつも、見てる新潟の海)

いつでも繋がることができるし、いつでも話はできるよ。いつでも声をかけてね。待ってるよ。


今日1日はばーちゃんのことを考えた日だったよ。楽しい思い出が沢山蘇ってきて幸せな時間だった。

安らかに眠ってね。本当にありがとう。

大好きだよ。


のぞみ


読んでくださってありがとうございました。

ばーちゃんは本当に波乱万丈な人生でした。
いろんなことを経験して乗り越えてきたんだと思います。
私だったらきっと耐えられないことも多かったと思います。

けど、これだけ生きていろんなものを残してくれました。

今までもの事も、もう忘れちゃってたこともあったけど、改めて書いてみました。
ばーちゃんと向き合ういい機会を頂けたことに感謝です♫


ばーちゃんがこれだけ生きた。と言うことはこれだけのお役目があったんですね。すごいな。


私もこれからきっとお役目があるんだろなって思っています。(何かはわかっていない笑)


本日はここまで。

ありがとございました。
それではまたね♫

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