東京日記15「7年目の」
命日ってなんなのだろう。
わたしにとって父が亡くなった日は、あの日以外なくて、当たり前だけど二度と同じ日はやってこない。
だから命日がまったく特別な日ではなかった。これまでずっと、友だちと遊ぶ予定が入っていた。わざと入れていたわけではなくて、たまたま予定が入ることが多かった。まったく意識的でなかった。
1年目、わたしは前日飲み会に行っていた。場が盛り上がりオールをすることに。母に連絡すると、母は怒っていた。命日をとても意識しなければいけないみたいであの時は嫌な気持ちがした。今思えば、母を嫌な気持ちにさせてしまっていることに対しての苛立ちだったのかもしれない。嫌な気持ちにさせているのに、わたしは家に帰らないことを選択して、帰ろうと思えば帰れるのに帰らない自分に苛立っていたのかもしれない。
命日を意識しないだけで、不届きもの、白状ものと捉えられる気がするのが嫌だった。勝手にそう思われるのではないかと自分で思っていただけだったが。
今年は遠出の予定を入れていて、ふと気がついた。
父の命日だ、と。母の近くに、家族の近くにいようと思って日程をずらした。はじめてだった。
あの日はあの日だし、もう二度とこない日だけれど
父を思って命日は家族と過ごす、家族の近くにいるということがあったっていい。決して、あの日ではないけど、あの日とまったく一緒じゃなくていいのだ。
わたしにとって父の死はなかなかのインパクトをもってやってきた出来事だった。だから、時間の経過とともに感じ方の変化がある。感じ方に変化があることで、時間の経過に気づく。
インパクトはあったものの、変に大きくも小さくも捉えていない出来事でもある。悲しくないわけではなくて、ただ降りかかる事実。
父のおかげで、みんな元気にそれなりに生きている。
命日は家族で過ごしたい。これがわたしの命日の過ごし方になった、7年目。