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ここまで、学校の建つ地盤である、「国」「文部科学省」「教育委員会」が、学校を支えきれないほど、もろく、地盤沈下を起こしていることを述べてきた。
保護者は言うまでもなく「子ども」を支える地盤である。その保護者が立つのは、地盤沈下を起こしている国であるとすれば、この論の展開は容易に想像がつくであろう。

「パートナー」から「顧客」へ

保護者と言っても、地域や経済状態、学校への期待度などによって、子どもや学校への対応は様々だ。
笑い話だが、ある過疎地の中学校の校長先生が保護者の要求に困っていると言う。
「校長先生、うちの子に勉強を教えないでくれ。進学してムラから出て行かれると困る」
言っている保護者もどこまで本気なのか分からないが、学校というのは制度に従って運営されるものであって、個別の要求がそのまま通るものでは本来ない。しかし、学校運営のボトルネックとなっているのが、「感情が制度を上回る」という独特の力学である。保護者の期待(圧力)によって、学校運営が歪められている面はいくつもある。
例えば、「うちは共働きで両親とも早く出社しなければいけないからだから早く学校の玄関を開けてほしい」という保護者の要求によって、子どもたちの登校時間が早まり、教員の勤務時間前に子どもたちが学校にいるというようにである。同じことがスーパーマーケットや遊園地、官公庁などで起こるだろうか。
「学校が忙しくなったのはモンスターペアレントのせいだ」という意見もよく聞く。ただ学校の内部にいる者から見れば、モンスターと言われるほどの保護者は極めて少数で、これだけを取り上げて学校の多忙の全てを語ることはできない。
「部活動の時間をもっと増やしてほしい」
「宿題をもっと増やしてほしい」
「家でゲームばかりしているから先生から注意してほしい」
「家に遊びに来る子の行儀が悪いので指導してほしい」
次々ともちこまれる悪意のない要求は、ボディブローのように、教員を疲弊させていく。教員が多忙になるほど、本当に困っている子に手を差し伸べられないという悪循環がここでも発生している。
平成の30年の間で、保護者は「パートナー」から「傍観者」、そして「顧客」へと立ち位置を変えた。別の言い方をすれば、「信頼関係」を基盤とした教育から「契約関係」(納税による受益)を基盤とした教育へと意識が変わっている。残念なことに教育から信頼関係を奪えば奪うほど、子どもたちが苦しむことに保護者が気づいていない。

「自己責任」を受け入れるしかない保護者

新自由主義政策の中ですすめられた労働者派遣法の改正による収入格差の拡大は、低所得の家庭を直撃した。コロナ禍の中で、物資支援の列に並ぶ親子の姿がニュースの画面に映し出された。非正規雇用の母子家庭、父子家庭では、雇用を切られたり、子どもの世話で仕事に行けなかったりすると貯蓄もなく、子どもに食事を与えることができないという現実が浮き彫りになった。
学校現場からは悲痛な声が届く。

・集金が滞るのはもちろん、学習用具も揃わない子がいる。
・生きるのに必死な保護者が子どもの世話にまで手が回らない。
・擦り切れて生地が薄くなった服を毎日着てくる子がいる。
・何日も風呂に入っていないため、保健室のシャワーでこっそり体を洗わせている。
・親自身に生活する気力が失われてしまい、子どもも学校を休みがちになる。

7人に1人が相対的貧困の状態にある子どもたちが学校教育の中で涙を流している。相対的貧困とは、その国の中で経済的、文化的に豊かな暮らしがしづらい状態である。例えば月10万円の収入で、かなり豊かに暮らせる国とそうでない国がある。日本は相対的貧困のラインが1人世帯で年収122万円、4人世帯で244万円と算出されている。これを割り込むと、標準的な生活がしづらくなる。具体的には、子どもに食べさせるために親が食事を切り詰めたり、子どもさえ食事が十分にできなかったり、高校生がアルバイト代を家計につぎ込まざるを得なくなったり、学業より就労や家事を優先しなければならず高校中退に至ったり、大学進学をあきらめたりという事態が発生する。
この相対的貧困率は収入格差の裏返しでもある。収入が少ない層が増えたということは、収入が多い層はさらに儲かっているということだ。新自由主義政策によって、再分配機能が弱められていることもこの根底にある。
また、新自由主義政策が、国の責任を自治体や民間に切り離したのと同じように、この責任転嫁は保護者に対しても行われた。教育基本法の改正の中にそれが見られる。

《旧・教育基本法》
第10条(教育行政)
教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
《現・教育基本法》
第10条 (家庭教育)
父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

改正前の第10条にあったように「教育は・・・国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」だったのが、第一義的責任は「保護者」と位置けた。
これはその後制定された「いじめ防止対策推進法」にも位置づけられている。

第9条(保護者の責務等)
保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。

また同様に、「児童虐待の防止等に関する法律」にも位置づけられている。

第4条(国及び地方公共団体の責務等)
6 児童の親権を行う者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責任を有するものであって、親権を行うに当たっては、できる限り児童の利益を尊重するよう努めなければならない。

どちらの法律も一定程度、国や自治体の責任を認めながらも、保護者の責任を明示することを忘れていない。
おそらくこの条文を知っている保護者は極めて限られているだろう。
収入が少なくて子どもを大学に行かせてやれなくてもそれを国が支援するということはなく、第一義的責任を負う保護者の自己責任である。仕事を休めず子どもへの関わりが十分できないために、子どもが不適応を起こしても保護者の責任である。
教員が多忙で目を回しているうちに学校が地盤沈下を起こしているのと同じように、保護者も労働者派遣法で収入を奪われた上、教育の責任を押しつけられている。

そして、この自己責任の風潮を後押ししているのが意外なことに国民自身なのだ。

2007年のアメリカのピューリサーチセンターの調査によると「国は貧しい人々の面倒を見るべき」という考えに対し、同意すると答えた人は、イギリス91%、中国90%、韓国87%、アメリカ70%であったのに対し、日本は47カ国中、最低の59%だった。(プレジデントオンラインより引用)

つまり、貧困は自己責任だと考える風潮が最も高い国であるということだ。アメリカでさえ「国は貧しい人々の面倒を見るべき」に70%が賛成しているのに、日本では59%しか国の責任を認めていない。
日本人の心情の奥にある「人様にだけは迷惑をかけるな」という教えは、「人に頼ることはよくないことだ」とすり込み、自己責任論に着地する。
厄介なことに、この考え方は新自由主義論と極めて親和性が高い。

保護者の多くは、我が子の教育に一定の関心をもち、積極的な家庭教育をしている。しかし、教育力が十分でない保護者、教育力はあっても経済力等の理由で子の教育がままならない保護者が増えている。増える理由は教育力低下の連鎖、貧困の連鎖によるもので、新自由主義下においては、時間経過と共に拡大し強化されていく。そして、これら少数弱者の声は、なかなか社会に響かないし、時折聞こえてきても「自己責任」という壁に跳ね返されて消滅していく。

信頼関係から契約関係に立ち位置を替えた保護者は、学校に助けを求めることもできない。苦しい状況を黙って受け入れ、耐えるしかない。仮に学校に助けを求められても、学校にもその余力はない。その一番の被害者が子どもたちであり、「教育の機会均等」すら脅かす非常事態である。

ただそんな中、子どもたちを救う「法」と「制度」が議論されている。それが「子ども基本法」と「こども家庭庁」であるが、議論の雲行きがあやしい。
当初「こども庁」だったものが、「こども家庭庁」と変えられた。「保護者は子の教育について第一義的責任を有する」と主張したい人の声であることは容易に想像できる。今こそ、学校と保護者が子どもたちのために声をあげなければならない時なのに、両者のパートナー関係は分断している。このビハインドの中で、僕たちができることは何か。

※執筆中の書籍の原稿の一部を引用して記事にしています。

※書籍の目次は下のリンク先にあります。随時、更新中。


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