パッケージには叡智が詰まっている。

はじめまして、こんちには。

パッケージを愛するNooonと申します。
このnoteは日々出会う素敵なパッケージに感動している私が、「素敵!よく考えられる!これ作った人すごい!!」というクリエイターに対しての賛辞を、独り言ではなく形として残したいと思い始めます。

パッケージ、とはいわゆる「包装」です。人、会社や団体などの人の集団の間でやり取りされる「物」があり、それを包む物のことです(多分)。
そもそも「物」をやり取りする際になぜ「包む」ことが必要なのかというと、バラバラになるのを防ぐため、持ち運びやすくするため、「物」を保護するため、などの物理的理由が主だと思います。「物」がきちんと渡したい姿のままで相手に届くために必要なものと言えるかもしれません。
現在は、より「物」=商品を魅力的に見せるための商業的な意味の方が強い場合も多々ありますが、本来はそういった物理的必要性に基づいたものだと思われます。

パッケージは「物」を届けるために必要なものではありますが、受け取り手が実際に欲しい「物」は中身であり、パッケージはそのおまけというか付属品ですらありません。「物」を実際に手にするにはパッケージを取り去る必要があり、大体においてパッケージは即ゴミ箱行きです。破られ丸められてゴミ箱に投げられたパッケージを想像すると、パッケージなぞ「物」が壊れないような実用本位なもので十分!と思ってしまいます。
ですが、そうは言いながらネットショッピングで何か購入した際に、おしゃれ度0の実用本位な梱包でも丁寧に包まれている様を見ると、送り手がその「物」をとても大切に扱っているだな、と感じることがあります。「物」自体を大切に扱っているだけでなく、壊れることなく正しい状態で受け取り手にきちん渡そうと言う意思の表れ、つまりそれを購入した受け取り手との契約をしっかり履行しようと思っているからなのではないかと思うのです。これは送り手の姿勢や受け取り手に対しての思いの表現に他ならない。

とはいえ、梱包ひとつにしてもコストがかかるものであり、どうせ包むなら物理的・実用的なだけでなくさらに役立たせることはできないか、と先人たちが知恵を絞ってきた成果が現在のパッケージの姿なのではないでしょうか。

見ただけでそれと認識でき、興味を湧かせ、よいイメージを膨らませ、ワクワクまでさせてしまう(食品だと唾液まで出させるかも)、いわばコマーシャルの元祖とも言えるパッケージ。
今はさらに環境問題も絡み、素材やパッケージそのものの意義も問われていて、あり方がとても難しいものとなってしまいました。
でもだからこそ、クリエイターのセンスが、知恵が、技術がぎゅっと詰め込まれている。
そんなパッケージとの出会いをこれから綴っていきたいと思います。






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