ファイナルファンタジー10感想文

泣いた。泣くよこんなの…

2019年新年一発目に始めたゲームがファイナルファンタジー10なのだが、ここまで面白いと思っていなかったので感想を書く。
ナンバリングタイトルなので、本来ならシリーズに与えた影響や0年代を歩んだFFの時代背景などを書くべきだと思うのだが、2001年のゲームなので、その辺りは他の人が語り尽くしていると思う。
だからここでは、自分がプレイして湧いてきた感想を抽出して書く。
目的が逸れてしまうので、戦闘システムとか攻略法とかも全て取り払う。 ネタバレはしまくる。
始めた段階では感想を書く気がなかったために画像のキャプチャーがないので未プレイの人は申し訳ない。


↓この感想文のポイント

【ポイント】
・ティーダはプレイヤーである
・親という既プレイを超えた瞬間
・戦闘から見える敵キャラクターの意志



ティーダの立ち位置

ゲーム起動した俺は自分の部屋からティーダが住むめちゃくちゃ栄えている都市ザナルカンドに行って「ここから物語が始まるのかな」とワクワクしていた。
しかし、ティーダがブリッツ(サッカーみたいなもの)の試合をしていたら大きな化け物が街を襲ってティーダは住んでいた場所と違う世界に飛ばされてしまう。
当然何が起こっているのはサッパリわからないが、それは自分だけではなく同じようにティーダも困惑する。
ティーダは俺がゲームを起動した時と同じ何も知らない、わからない状態にになっていて「こんなにプレイヤーに寄り添ってくれるんだ」と感動した。

物語を進めて行くとティーダの声でモノローグが入ってきて、ゲーム画面に何も知らないスピラに来たばかりのティーダと、実態の無いティーダが心情の説明をして、画面外に何も知らない俺がいるという状況になる。
この内語は「この時は~だと思った」の様に過去形で話されている事から未来のティーダの回想ということが推測できる。
過去形になってるので、その場の湧いて出てきた新鮮な心情ではなく、自分の中で整理された状態で俺に伝えてくる。この内語がティーダ感情の表れと状況の整理に助けとなった。
ここで大事なのは、内語は嘘をつかないと言う事だ。内語は周りに聞こえないため、仲間達よりプレイヤーの俺の方がティーダの気持ちがわかる。つまりティーダに感情移入しやすい状態となる。

ティーダは内語だけでなくセリフもプレイヤーにかなり寄り添っている様に感じられた。例を挙げると、シンを倒すために召喚士は死んでしまうと言う運命を知った時に「知らなかったのは…俺だけかよ!」と仲間に怒りを表すシーンがある。ゲーム内でティーダが知るタイミングにプレイヤーもその事実を知るため「いや、ティーダ俺も知らなかったよ…」と思わず俺も声が漏れた。
そして凄く印象に残った最後のエボン=ジュ戦のセリフでは、「みんな、いっしょに戦えるのはこれが最後だ」「エボン=ジュ倒したら俺消えっから!」「さよならってこと!」まさにこれはゲームのラスボスを前にしたプレイヤーの心情である。
エンディング前にティーダはプレイヤーと共にスピラからフェードアウトしていく。実際にプレイヤーが操作できるのはエボン=ジュ戦が最後。
ティーダがスピラを救うために現れたというのは、まさにゲームを起動したプレイヤーの様な存在である。

ブラスカ、ジェクトを追いかける

スピラに来て、ユウナの父親が召喚士でティーダの父親がそのガードをしていたことを知る。それだけではなく、スピラの災いの元凶であるシンを鎮めナギ節の訪れさせた英雄の扱いを受けていた。
ジェクトはティーダの元居た世界でもブリッツのトップスターであり、スピラでも有名人である。
ユウナとティーダは親が有名人、又は英雄といった共通点もあり越えなければならない壁の存在が似ていた。
途中まではシンを倒すための究極召喚を得る旅として、ブラスカが通った道を歩いて行く。道中でもジェクトのスフィア(映像記録媒体)が落ちており、ブラスカ達が10年前何をしていたか垣間見ることができる。
わかりやすく言うと、ブラスカはスピラの旅を既にクリアしていてプレイヤーの攻略の導となっている。
つまり、プレイヤーもブラスカの後を追い同じ道を進まなければならない。
しかしながら、シンを倒すための究極召喚が必要だが、究極召喚はガードを祈り子(召喚獣って認識)にするもので、究極召喚を終えた召喚士は死ぬ。
そしてシンを倒したら、究極召喚された召喚獣がシンとなる。
二人を犠牲にして、シンの僅かな活動停止期間を得ることができる。これがスピラを取り巻く悲しみのサイクルである。
この事実を知ったティーダはシンに怯えることなく過ごせる日々だけでなく、誰かが犠牲になるこのサイクルを断ち切るという考えに至る。
結果としてザナルカンドの寺院(究極召喚を得る場所)でブラスカ達と違う道を行くことになった。
やはり、ユウナレスカ戦が一つターニングポイントになっていて「親と違う道を選択する」「スピラで今までそうしてきたと言うサイクルを断ち切る」この二つがティーダとユウナの物語なんだなと思う。
ユウナレスカ戦が今までの流れのカタルシスになっていて、俺のテンションもめちゃくちゃ上がってた。

シーモア戦、ユウナレスカ戦から見えるキャラクター

あともうひとつ感動した点がある。それはシーモア終異体とユウナレスカ戦である。この二つの戦闘こそがシーモアとユウナレスカの目的を想起させ、キャラクターの意思を感じさせる作りになっていると考える。
個性を発揮する戦闘の例としてあげるならば、ドラゴンクエストの「〇〇 は ぼーっと している」が有名。ぼーっとしているはRPGの戦闘で何もしなくていいんだ!又は、こいつ…こっちに気づいているのかな?っとモンスターの性格を感じられる画期的な発明である。ドラクエに関しては、色々語りたいが、横道にそれてしまうので話を戻す。シーモアやユウナレスカはティーダ達と考え方は違えどスピラを継続させて行きたいと言う気持ちがあった。
死を救済と考えているシーモア(終異体)の戦闘パターンで滅びの槍→アレイズと言う行動を取る。
まず、どういう事か説明すると滅びの槍は相手にゾンビの状態異常を付与させる。ゾンビ状態になると回復の効果が反転しダメージを受けてしまう。ケアルをするとダメージを受けてしまう。この事からわかるように完全復活するアレイズの魔法を受けると、そのまま死んでしまう。この直接的に即死の魔法を使うのではなく、アレイズで相手を殺す。あくまでも、回復魔法で死なせる。これこそがシーモアの考えなのではないか。死=デスではなく、死=救済この考え方が見えて、シーモアと言うキャラクターがより深まった。直接デスや死の宣告を使わないあたりシーモアの思考が見えた。
続いてユウナレスカは、オーバーデスと言う技を使ってくる。この技はゾンビ状態じゃないキャラクターを即死させるという技である。ゾンビ状態じゃないキャラクターが死ぬというのが、スピラの信仰を背いている奴が殺されている様な気がした。ゾンビという状態異常を治さないことで回避できるオーバーデス。ユウナレスカはゾンビ以外にも混乱や暗闇などの状態異常付与してくる。この事から混乱もするし、周りも見えなくなるが死は免れることができると言うユウナレスカの教えなのではないか。この二人が特にファイナルファンタジー10を表しているボス戦なのではないのかと考えている。上記にも書いているが、ファイナルファンタジーには即死の魔法や技はいくらでもある。それでも、この様なやり方をしてくるのは、単純にゲームの難易度調節だけでなくキャラクターを際立たせるために行っているのではないかと思う。

話が逸れてしまうのだが、ファイナルファンタジー10は戦闘に入る前にムービーがあるタイプのボスが強く一発で勝つことが少なかったため、シーモア、ユウナレスカ、ジェクトなどのムービーはめちゃくちゃ見た。

まとめ

ゲームが終わった後に意外とミニマムな空間で物語が進んでいたんだなってことに気づいた。登場キャラクターにしろ、目的の場所など、ストーリーを進めて行く内に一回は見ている聞いている情報で事が済んでいる。今でいうところの一本道RPGって言うのだろうか。個人的には要素が分かりやすく非常に遊びやすかった。

後、やっぱりティーダにここまで感情移入するとは思っていなかった。有名な話ドラゴンクエストの主人公はプレイヤーの感情を当てはめる上で主人公のセリフが一切ないが、これだけ喋っておきながらティーダが消えた瞬間泣いてしまった。自分もびっくりするほどティーダに感情移入していた。これって映画や小説をみている感覚に近いのだろうか…

全体を通してプレイヤーを引き込む演出が素晴らしかった。ティーダの立ち位置や親を超える旅や敵で出てきたキャラクターなど全てが良かった。エンディングテーマである「素敵だね」が流れた瞬間ボロボロ泣いた。この「素敵だね」卑怯でゲームプレイ中に流れているBGMに歌詞をつけた曲のため、体に染み込んでいる状態で聞ける。これをエンディングに持ってくるのは、旅の総括的な感じでよりいっそ泣ける。

2019年に初プレイしたのが恥ずかしくなってくるぐらいの名作だった。やはり、友人達の会話やネットで名作って言われているゲームはプレイした方が良いなって思えた。

本当に…本当に面白かったので、引き続きⅩ2をやる予定。楽しみだなー!


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