ゆめにっきドリームダイアリー感想文

思い出が正しい?

2019年2月21日にNintendo Switchで配信が開始されたゲームゆめにっきドリームダイアリーをプレイしたので感想を書く。
0年代に一世を風靡したフリーゲームゆめにっきが元となっているため所々比較して書くつもりだ。本文では、ききやま氏が2004年に公開されたフリーゲームを「ゆめにっき」、2019年にSwitchで配信されたゆめにっきを「ドリームダイアリー」(今回のお題)と表記する。
基本的にはゲームをプレイした感想になるので、攻略方やシナリオの考察はしない。


今回もネタバレを含みますので注意して下さい

ポイント
・ゆめにっきが残した物語
・アクションと謎解きで得たもの失ったもの
・誰かの夢


表情がないゲーム

ききやま氏が公開したフリーゲームゆめにっきなのだが、今では多くのファンがいてプレイ動画や実況プレイ、ゆめにっきの創作動画など含めニコニコ動画で「ゆめにっき」のタグ検索をすると5558件(2019年3月)の動画がヒットする。この動画の数からゆめにっきの人気がうかがえる。
語りだす前にゆめにっきの物語をおさらいしよう。

マンションらしき建物の部屋に居る女の子がベッドで寝ることによって夢の世界に行き12枚のドアから様々な世界に旅立ってエフェクトと呼ばれる自分の姿を変えるアイテムを集める。全部集めたらマンションから飛び降りて終わり。

俺たちが共通して認識しているゆめにっきの物語はこれ以上ないと考えている。
このゲームはプロローグとエピローグ以外の物語が明確に示されていないという事。しかし、ゆめにっきには核となる物語がある。それはどこかと言うと、エフェクトを集めるという行為がエピローグを見る手段となっているためこのエフェクト集めがプレイヤーたちに与えた物語であってゆめにっきの物語である。エフェクトを集めるために夢の世界を徘徊しそこで見たもの出会うもの断片的な情報をプレイヤーが自分の中で自由な解釈でつなげて物語を作っていく。何も脈絡のない事象でさえ、ゆめにっきの大事な要素だと考えプレイヤー達は夢の世界で見たことを自分の物語に落とし込んでいく、これにより、プレイヤー一人ひとりのゆめにっきの物語が構築されていった。それがゆめにっきの物語の正体である。これこそが、多くのプレイヤーを虜にし今でも根強いファンがいる理由だろう。ゆめにっきは夢を散歩するだけという物語がない事が、逆に物語を想起させる要因となっている様に思える。実際に二次創作や考察関連の多さは、この要因が上手く作用している結果なのだと考えている。
ゆめにっきの性質に似ているコンテンツがある。それはサンリオのキャラクターたちだ。サンリオを代表するキャラクターのハローキティは口がない。その理由として、ハローキティの生みの親である山口裕子氏は「口はいちばん表情を出しやすいですね。でもその口がないから、キティは見る人の思いによってどんな表情にも見えるんです。悲しいときは励ましてくれるし、嬉しいときは一緒に喜んでくれる。そこが魅力かなと私は思います。」と語った。俺としては、サンリオのキャラクターは口だけではなく眉毛もないキャラクターが多いためボディーランゲージとしても感情も出にくいのだと思う。
そう言った意味でゆめにっきは、まさに表情がないゲームとしてプレイしたプレイヤーの人生経験や体験、現在の感情などが非常に反映されやすい性質持っていると言えるのではないか。

ドリームダイアリーが得たもの失ったもの

ドリームダイアリーのプレイ感想文を書くという話なのにゆめにっきの話を長々としてしまい申し訳ない。ここからは、ドリームダイアリーについて書いていく。ドリームダイアリーをプレイしてゆめにっきと違うなと感じた所は、敵を避けると言うアクションと次のステージに進むために謎解きをすることを要求されていると言う点である。
このふたつの点がゆめにっきと決定的に異なる部分でありドリームダイアリーを語る上で重要な部分である。
まずは、このふたつの点で得たものから書いていく。アクションと謎解きがあることによってプレイヤーは次に何をするべきなのか迷うことなくゲームを進めることができる。つまり、次に進むための道標が明確になり、非常に遊びやすいゲームとなっている。これをしてはいけない、こっちには進めない、など目で見て分かる様になっているため次に何をすればいいのか困らない作りになっている。ゆめにっきをプレイした人であればわかると思うがエフェクトを全部集める行程はかなり時間がかかる。それぞれのエフェクトがほぼノーヒントで集めないと行けないため、途中で投げたプレイヤーもいるはず(俺はプレイ動画を参考に集めた)。次に失ったものとは何か。上記の理由からゲームとしてプレイヤーに親切になっているが、ゆめにっきをプレイしている人にとっては違和感を生じたのではないか。この親切さによってゆめにっき持つ夢の中を徘徊すると言う要素が失われてしまった。ゆめにっきの夢の中をルール無く自由に徘徊する事は、現実言うと「知らない町に来たから気の赴くままに進もう」「こっちの道を行くと何があるのだろう」などの冒険的好奇心を得るために行動を起こす感覚に近い。この感覚がドリームダイアリーには無い。
個人的に一番衝撃だったのが、リスポーン地点が設けられていること。夢の中で川に落ちたり、触れてはいけない物体に触れた時にステージのリスポーン地点に戻るという行為、このリスポーンする行為を引き起こす”敵”の存在がゆめにっき”らしさ”を大きく損ねていると感じる。
「いや、待ってくれ!ゆめにっきにも鳥人間(くちばしの人間)とかいるじゃん!鳥人間に触れたら孤島に送られるけど?」と思った人もいるかもしれないが、ゆめにっきはシーンが繋がっている事でそれ自体も物語の一つと思うことができたが、ドリームダイアリーではリスタートされてしまうため「カット!今のナシナシ!はいTAKE2!」という製作者の声が聞こえてしまい、やはり、ゆめにっきと根本的に別のものなんだなって感じてしまった。
ドリームダイアリーはゲームとしてはしっかりとしているが、ゆめにっき”らしさ”を失っているのではないか。

ドリームダイアリーとはいったい何なのか

ききやま氏に許諾・協力・全面監修で製作が行われたドリームダイアリーなのだが、実際にプレイしてみるとゆめにっき”らしさ”が感じられなかった。個人的な結論を出すとすると、ドリームダイアリーはゆめにっきが残してた夢から生まれた製作者達の夢なのではないだろうか。
無数に広がっていたプレイヤーたちがゆめにっき見た夢の一つであると解釈すれば個人的にはスッキリする。
あまりにも演出が多いため、製作者たちはプレイヤーに伝えたい事が多いのかなと思ってしまった。
ドリームダイアリーをプレイして個人的に好きな演出が一つある。それは商店街のドアから行ける道路を遮っている生物をほうちょうで刺すシーンだ。その生物をほうちょうで刺したら主人公は目を覚ましプレイヤーの方を見つめるという演出なのだが、ほうちょうで刺したのは主人公ではなく、俺なんだと思わせる様な何とも後味が悪い演出だ。

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カメラの位置を把握している

上記の演出の様に製作者たちはゆめにっきで見た夢を再構築してプレイヤー達に共有するのを目的として作ったのではないのか。

まとめ

ゆめにっきが再構築されてリリースされた事は衝撃的だったし、正直ゆめにっきファンとして嬉しかった。しかし、プレイしていく内にドリームダイアリーは俺の思い出の中にあるゆめにっきとは異なっていた。「全然ゆめにっきじゃないじゃん!」と怒っていたが、そもそもゆめにっき”らしさ”って何だろう?考えた所、プレイヤー一人ひとりのゆめにっきがあることに気づき、ドリームダイアリーもその一つ何だと思える様になった。
思い出は時に綺麗すぎてしまうからこそ、見えなくなるものが存在するのかと考えさせられるゲームだった。

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