素直に居ること
こんばんは。
今日買ってきたお豆で珈琲を淹れ、部屋の片隅に陣取り、少しの寒さを感じながらマグカップを抱えている、土曜日の夜です。
温かい飲み物も、すぐに冷めてしまう季節になりました。
世の中には、いろいろと工夫をして温かさを保つグッズがあり、冷めた珈琲などを口に含む度にそういうのあってもいいなあ、と思わなくもないのですが、
多分、私は買わないのだろうと思います。
季節が移り変わって、気温が下がって、家で飲むお茶や珈琲もなんとなく冬仕様になって、
あつあつのお湯で温めたはずのマグカップも、ちょっと経てばひんやりとしていて、
あぁ、冬になるんだ、と。そしてそのうち、冬になったんだ、と。
そういう当たり前を、いつまでも感じていたい気がするのです。だから、すぐに珈琲が冷めてしまうのも、この季節だから、いいのです。
…と、こんなどうでもいい話から入ってしまって、何が書きたかったのか忘れかけているのですが、
そう、タイトルは「素直に居ること」ですね。
・・・
今年の夏は、夏らしいことはしていなくとも何だか気忙しく、仕事の出来不出来や人との関わり方にずっと悩んでいた気がします。
自分がどう感じるのか、ということよりも、他者がどう思うのか、他者にどう思われたいのか、ということが中心にあり、
頑張り方も他者評価を基準にしていて、常に焦燥感、やり切っても褒められても安心できない、という日々でした。
どうしたら抜け出せるのか分からず、いえ、本当は分かっていたのかもしれませんが、自分の心に向き合う勇気がなく、「慣れた不幸に安住」していたのでした。
自分の心に素直になったら、仕事を頑張れなくなってしまいそうで、今まで力を入れたこともどうでもよくなってしまいそうで、こわかったのです。
「本当は」「本当ならこうしたい」
常に影から窺うこうした言葉たちに、すべてを持っていかれそうで。
でも、いつの間にか、少しずつ、大丈夫になってきたようなのです。
上手く表現できないのですが、やりたいとかやりたくないとか、好きとかきらいとか、そういう区別がどうでもよくなってきたところがあって。
ただ生きているだけで、何だかもう、十分で、今の仕事は仕事として、静かに続けていきたいと思えるから、それでよくて。
何かにならないといけないと思っていたけど、別に何者にもなる必要はなくて、素直に日々を過ごしていれば、それが私の人生になるのだから、それでいいのだ、と。
すごく当たり前のことを言っているのかもしれませんが、長いこと、ほかの誰か、他者を基準に自分の人生を設計しようとしていたので、
日々、ただ自分の人生を生きるという感覚が、新鮮なのです。
素直になりたい、と思っているうちは、素直になれていない自分にどうしても意識がいくので、辛くなってしまいますが、
そういう執着を手放せると、自然と本来の、ありたかった心の状態が戻ってくるのだなあ、と感じています。
コロナの影響で、人と会う機会がめっきり減って、新しい出会いというのもなかなかないですが、
今度、慣れた友人ではない人と休日を過ごす予定ができました。
社会人になってから、大学の頃の友人のひとりとしか遊んでいなかったので、どんなご飯が、どんな場所が好きなのかほぼ未知の人と出かけるのは久しぶりで、少し緊張もあります。
好かれも嫌われもしないよう、無難な場所を選び、無難な会話をし、無難な時間に別れる予定を立てることもできたのですが、
相手のやさしさも手伝って、以前よりは素直に、ああしよう、こうしようと話せた気がします。
ここしばらく、その人とやり取りをする中で、あぁ私は、誰かに嫌われる恐怖から逃げたくて、新たに友人をつくる機会を自ら手放していたのだなあ、と気づきました。
素直に、話したいと思う人と、話してよかったのですね。一緒にごはんを食べようと、さそってよかったのですね。
私なんかと仲良くしなくても、と本気で思っていた、ちょっと前の私へ、
何も恐れなくてよかったよ、楽しい、嬉しい、会いたい、話したいという気持ちは、そのまま、ただそのまま、持っていていいんだよ。
今日も明日も明後日も、変わらぬ日々を、新しい自分が生きていく。
この穏やかな勇気が、ちょっと先をずっと、照らしていてくれますように。
またよく分からない文を、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
よい夜を、もしくは朝を、日々を、お過ごしください。
おやすみなさい。