5/5 うしおと虎

今日は5/6で、その日が祝日であることを私は知らなかった。5/5の子供の日が日曜日にあたるので、その次の日の月曜日が振替で祝日になるらしい。
気がついたらもう3日も山の中で過ごしていた。山の中は快適で何一つ不自由がなく、それでいて自分たちでは気温一つ操作することができずに大変愉快な日々が続いた。やはり二拠点で山と港に暮らすのは間違っていない方向性かもしれないと確信を得た。山がいいのは、川があるところ。山がいいのは、滝もあるところ。ただ延々と滝壺に水が落ちる音が響く。水はそこにありつづけるだけでただ下へ下へと降っていく。滝から川へ川から海へ湖へ流れる、人工的に作り上げたダムですら水の流れは上から下にしか流れることはできない。人工物であってしても例えば噴水、逆噴射して水を持ち上げることはできても、結果的には上から下にしか流れ落ちることしかできない。上から下、下から上には進まない不可逆性の時の流れと同じ。水を受けて根を張る新緑は下から上へと突き上がる。水から生を受ける植物は育てば育つほど上へ上へと伸びていく。下から上、活火山と同じ流れ。マントルから突き上がる火山には植物の静脈を通る水の流れと同じ力が働いている。調べてみたら日本では桜島が活火山としてレベル3に指定されていた。桜島の地面には地底を這うような火山と空を舞う火山灰がある。なんだか無性に九州地方に行ってみたい気持ちがするのは、活火山のエネルギーを水の不可逆性とはまた違う形で感じたいからかもしれない。
幕が上がる、日が昇ると月が霞むが月はただずっとそこにある。山の中にいたから空ばかり見ていたけれど、日本の南側の山は本当に色が濃いし騒々しさがある。それは動物がいるからだけではなく、若い木と年老いた木が共生しているからかもしれない。山がないところに住むと寂しい気持ちがするのは「離れたところにいる」とより認識させられるからだ。相対して街にいることを寂しいと誤解しているけれど、街には寂しさを感じさせる要素はない。ただ山と離れているという実感が寂しさを想起させている。
山にいる間は家族について考えていた。血縁によって構成される家族という共同体に、人はどんな感情をもつのだろう?しがらみ、拘束、自分を縛るもの、安心できる場所、うとましいもの、自分の手で作り出したいもの、自分とは縁のないもの、私は映画館にいるような気持ちになる。タイトルもわからない映画を人に連れられて見にきて、心底感動するような心持ち。それがなんなのかはよくわからないけれど、鑑賞者としてその席にいると心地良い感動を得られるもの。演劇よりも遠くて、描写ひとつひとつに物語の意味を載せてくるもの。家族は別に血縁同士でなくても構成できる。トライブを組んで多くの土地を行き交う他者たちを知っている。そこには数珠繋ぎの愛と憎しみと優しさとが混在している。山の中だから寂しくはなかったし、港にいれば喧騒で寂しさを感じる隙間がない。トライブも気楽ではないが、気負いがないという意味ではいくらか気が楽だ。肌に合うか合わないかの問題だと思う。
帰り道に分厚くて大きな本を八王子で買った。私は辞典や図鑑のように分厚くて一枚のページに二段構成で文章が書かれている本が好きだ。読むのに時間がかかるけれど、一枚一枚に詰まった文字を読むだけで気持ちが楽になる。この本もきっと時間をかけてゆっくり読むのだろうなと思いながら久々に新品の本を買った。
夏が来る前にさらさらのブランケットがほしい。

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