キャッチャーミットを構える
幼い頃、両親との関係が私の心に風穴を開けた。
父が突然いなくなったこと、母がアルコールの問題を抱えていたこと。
それを自分のせいだと思い込んでいた。
人には二面性があるということを子どものうちに理解出来るはずもない。
だから見捨てられるのがこわくていい子でいようとした。
大人になるとその穴を何かで埋めようとして承認欲求をこじらせた。
今もそれが消えたわけではない。たださみしさを「認識する」ことは出来ているみたいだ。
占星学では、私は身近な人と同一化しやすいところがあるらしい。
境界線をうまく引けないので、相手の機嫌に左右されて心がグラグラしやすい。
人の荷物まで背負おうとするのは、人の痛みを自分ごととして受け止めてしまう性質だから。
誰も頼んでないのに。たぶん自分の痛みにも触れて欲しいからなんだろう。
相手と自分の問題を切り分けること。それがずっと難しかった。
苦しみの底にいる人は、同じ土壌にいる人と足を引っ張り合う。這いあがろうと努力している人は、同じように前を向いている人と励まし合う。
目の前で泥沼試合を繰り広げた両親のおかげで、私の中には「天国か地獄」「0か100」という思考が植え付けられた。
自分が極端な環境にいたと気づくのに時間がかかった。家庭の事情は自分にとっては「当たり前」だったから。
ずっと大人になって、自分のために心理学の本を読むようになった。
自分と同じように相手にも相手の世界がある。相手の事情がある。そういう当たり前の視点が抜けていたと気づかされた。
尊重するということ。相手は変えられないのだから、自分の受け止め方を変え人として成長すること。
考え方としてはネガティブ・ケイパビリィティに近いのかも知れない。
すべては自分の弱さを「自覚」することから始まる。失敗しても失敗のまま終わらせない。学んでいくしかない。
ある時「キャッチャーミットを構える」というフレーズを聞いた。
相手の投げやすい球を理解する。投げたい球を尊重する。揺るがない安定感でピッチャーのタイミングを待つ。
キャッチャーの視点で状況を俯瞰してみることが、今の自分への課題なのかも知れない。
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