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[短編小説]手紙の行方

 ***
 
「なに、これ」
 
 届くはずのない手紙が、私がいる家に届いた。宛先も差出人も不明で、この手紙に関する情報は一切分からなかった。
 
「おばさんさん宛、なのかな……」
 
 小さな田舎町の外れにあるこの家は、元々おばさんのものだ。だから、順当に考えればおばさん宛の手紙だろう。
 
 しかし、おばさんが最後にここを利用していたのは、半年ほど前。病気を発症してしまったため、都内の病院に入院しているところだ。入院してから一週間とか一か月ならまだ分かるけれど、半年経った頃に届くとは、私の胸中には嫌な予感しかしなかった。
 
「うん。やっぱ見てもよく分からないや」
 
 万が一自分宛であることを危惧して、封筒を丁寧に開いては目を通してみたけれど、手紙の正体は分からなかった。内容としては、最近活発的になれたことへの感謝が綴られていた。
 
 手紙の内容はあまりに純粋で眩しくて、今の私にとっては毒そのものだった。
 私の心境とは正反対の文字を見たくないことに加え、他人宛の手紙を勝手に見てしまったことへの罪悪感も相まって、開けた時と同様に丁寧にしまった。
 
「あとでおばさんに……、いや、まぁいいか」
 
 ちょっとした好奇心を満たすよりも、私には外界と交流する時間を僅かにでも作る方が嫌だった。
 
 現在私がおばさんの家にいる理由。
 表向きには、長期入院しているおばさんの家を片付けるという名目だ。入院してもあまり容態が変わらないおばさんを案じて、おばさんの兄でもある私の父親から、半年という期限付きで掃除を任された。
 それが今から一か月ほど前の話であるのだが、自主的にではなく後ろ向きな理由で受け入れたが故に、おばさんの家を片付ける私の手は一向に進んでいなかった。おばさんの家は案外広く、どこから手を付けていいのか純粋に分からない、ということもある。
 
 しかし、私が部屋にいる真の理由は、別にある。
 
 現在休学してはいるが、私は都内の大学に通っている。ひっそりと構内を歩き、教室の真ん中の端っこらへんの席で授業を受けるような、前に出ることが苦手な学生――だったけれど、人とは違うことが一つだけあった。
 
 実は、私は『ナギ』という名前で、ネットの世界では動画配信者としてそこそこ売れている方だ。アカウント名は、私が物静かな人間であることに加え、苗字である『佐柳』からも引用した。
 
 ライブ配信をして人の悩み相談を受ける、というスタイルで活動をしていたのだが、登録者数もそこそこ多かった。人前に出ることが苦手だからこそ、動画配信は私にとって天職に思えた。
 
 けれど、私は良かれと思って放った発言が、受け手には不快に感じられてしまったことが一度あった。最初は小さな火種だったはずなのに、いつしか火は大きくなり、炎上に巻き込まれてしまった。
 
 それから配信をする度に、謂れのない誹謗中傷が飛び交うようになった。他の配信者の方が親身になってくれていい、というわざわざ言う必要のない意見までコメントに叩かれた。てふてふさんやMs.IMIさんなど、私も視聴して、尊敬するような具体名も挙げる人もいた。
 
 たとえ本人に身に覚えのない言葉だとしても、何度も見続けて来ると、心身への影響も及ぶ。
 最初は無関心でいられたけれど、いつしか配信をする手は止まり、気付けばパソコンの電源さえいれることがなくなっていた。
 
 世界全てが敵であるかのような感覚が、この時から私の身に襲っていた。自分の部屋のはずなのに、この場所から繋がってしまった経験があるが故に、どこか違う場所に迷い込んでしまったようだった。
 
 だからこそ、おばさんの家に行くという提案は、私にとって救いの手が差し伸べられたかのように思えた。
 
 本当は自分の部屋にずっと引き籠っていたかったけれど、トラウマがよぎる部屋よりは幾ばくかマシだ。
 
 私は現代社会の便利な暮らしを捨てて、外界と繋がってしまうような電子機器も持たず、おばさんの家へと避難した。当然周りにコンビニもスーパーもない場所なので、食事や日用品の補充は実家からの週一回の仕送りに頼り切りだ。
 
 自分の生活を振り返って、自分自身に思うことは――。
 
「ガラクタみたい」
 
 炎上に巻き込まれて容赦のない誹謗中傷を集中砲火した私の心は、もはや壊れたといっても過言ではなかった。
 
 人としての生活さえもままならないまま、どれだけの時間が経っただろう。しかし、心の奥から活力が湧かないのだから、誰が文句を言えよう。「ふわぁ」と生欠伸を漏らして布団に戻ろうとした直後、緩んだ心身を緊張させるような風切り音が部屋中に響いた。
 
「またか」
 
 最初こそ驚いたものの、すぐに呆れるような嘆息交じりに天井を見上げた。
 
 そこにいるのは、一羽の鳥。
 おばさんの家で過ごすようになってから、朝の到来を知らせるのは必ずこの鳥だった。以前住んでいたおばさんが毎朝エサでも上げていたのだろう、この一か月間、寸分違わず朝になるとやって来る。しかし、おばさんなき今、鳥にエサを与える者は誰もいない。催促するように部屋の中を二周、三周と回ると、鳥は入って来た小窓から出ていく。その声は少しだけ切なそうに聞こえるが、私には関係ない。むしろ、鳥がいなくなって清々すらする。
 
 だから、家の郵便受けへの投函にすぐさま気が付いたのも、この鳥が部屋にやって来るタイミングに、脳と体が無意識に慣れてしまったことが大きい。一か月も同じことが繰り返されれば、当然だろう。
 
 手紙の投函というイレギュラーな出来事が発生したものの、鳥が去った今、これにて一日の平穏は約束されたものだ。
 
「もう一度寝よう」
 
 今の私がしたいことは、惰眠を貪ること。おばさんの部屋に来てから、私が生産的な行動をしたことは一度もなかった。
 
 ***
 
「お話を聞いてもらってありがとうございました」
「動画を見てると、いつも元気が出ます」
 
 私の動画の視聴者から投げかけられる言葉が、いつしか私の活力となっていた。
 
 内向的な私が、まさか人様から感謝されるような日が訪れるとは、全くしも思いもしなかったし、お礼を言われることがこんなにも嬉しいことだとは、体感するまで全くもって分からなかった。
 
 元々、私は誰かの話に静かに耳を傾けることが好きだった。そんな思いも籠めて作ったアカウント名は、すぐさまネットの世界に広がり、不特定多数から求められるようになった。
 
 視聴者のコメントに耳を傾けて、その人が求めることを判断して、適切な言葉を投げかける。
 そうすると、視聴者から肯定的なコメントを貰えることも増えていった。それは私自身の励みにも変わっていった。
 自分自身も楽しめていることもあって、私はのめり込むように動画を配信した。
 
 ただの文字だけど、そこには意志があって、心がある。丁寧に読み上げると、その人の心が私に反映されるようだ。
 
 ここが、私の輝ける場所。
 
 自分自身が足りないことは分かっていたけど、それでも私は私の全てを出して、みんなに喜んでもらおうとした。
 
 なのに、私の大切な居場所は唐突に奪われてしまった。
 きっかけは、とある視聴者に向けた私の発言だった。
 
 いつも通り私の元に届いた相談事に、私は真摯に耳を傾けて、その人が求めている言葉を伝えた。相談主は「ありがとうございます。もう一度頑張ってみます」という嬉しい反応を返してくれて、いつもならそこで終わるはずだった。
 
 しかし、問題は私の動画のアーカイブに、批判的な言葉が投げられたことだった。
 
「その人の状況も性格も知らないくせに、よく耳障りだけが良い助言が出来るよね。本当に偽善そのもの。見てて吐き気すら感じる」
 
 辛辣なコメントを目にした時、確かに私の時は止まった。
 
 そのコメント一件だけだった。数だけで考えれば、些細で微弱なものだ。なのに、私の心はそのコメントから離れてくれない。対処方法も分からないまま呆然と放置していると、気付けばコメント欄に批判的な言葉が増えて来た。たった一つの批判的なコメントは、きっと誰かの反感した思いに火をつけてしまったのだろう。
 
 事態は、更に加速していく。
 問題の動画だけでなく、律儀にも私の全動画に批判的なコメントを投じ、また別のSNSの媒体にも誹謗中傷が広がった。
 
 後々になって分かったことだけれど、私のコメントに最初に火を投じたのは、相談主と諍いがあった当の本人らしい。
 けれど、キッカケはどうであれ、私に対して悪感情を抱いていた人が多く存在していたということだ。今回の一件で、埋もれていた人が浮き彫りになってしまっただけに過ぎない。
 
 自分にとっては間違ってはいない発言だとしても、誰かにとっては反感の伴う言葉にもなる。色々な人がいて、色々な受け取り方があるのだ。そこに文句を言うことは出来ない。
 
 それにあながち的外れの指摘でもないことは、自分でも分かっていた。
 私はその人のことを何も知らない。何も知らないくせに、投げかけられた数行の文字だけでその人のことを全て理解した気になって、無難でどこかありふれた答えを得意げに与える。
 動画の中でなければろくに人と話すことも出来ないくせに、どの口で法螺を吹けるのだと、我ながら心のどこかで思っていた。
 
 あれだけ心地の良かった場所は、ただただ傷を抉られるような場所になった。
 
 これは私のせいだ。私が目の前の人にだけ良い顔をしようとしたことで、他の人を蔑ろにしてしまったからだ。
 
 頭ではそう受け入れて水に流そうと思っていても、心は納得出来なかった。
 心で受け入れられないでいると、体にまで影響が及ぶ。ただ普通に生きようとしているだけなのに、体が震えて、胃が握りつぶされるように吐き気を催す。
 
 気付けば私と世界を繋げていたパソコンは、黒い画面のまま動くことなく、宝の持ち腐れと化していた。
 このままでいたら、私は再起不能なまでに完全に壊れる。
 
 だから、その居場所から逃げるために全てを捨てた。
 
 そして、辿り着いたのが、誰もいない田舎町――。
 
 
 ――私がこんな辺鄙の地にいる理由は、概ね現実逃避からだ。
 
 気分転換をしようとしているのに、おばさんの家にいると否が応でも、「私は逃げ出したんだ」という自責と共に昔のことを思い出してしまう。そして、思い出す度に、私の心は深く沈み込む。
 
 ずっとずっと夢の世界に浸って現実になんて戻りたくはないと思うのに、おばの家がもたらすルーティンによって、私は強制的に朝日と向き合わされてしまう。
 
 最初は鳥の訪れと共に、嫌々強制的に目を覚ましていたというのに、
 
「また手紙?」
 
 最近は鳥よりも早く郵便受けに投函される手紙の音で目が醒める。
 
 ここ最近になって手紙の届く頻度が多くなって来た。
 
 一通だけの時もあるし、一度に二桁近くの手紙が届くこともある。共通して言えることは、おばさんの家の住所しか書かれておらず宛名は不明、それでいて手紙の内容からも個人情報は一切読み取ることが出来ない。
 
 念のため目を通しているが、やはりと言うべきか、全部自分には関わりのないものだった。
 ただただ肯定的な言葉だけが綴られていて、私の気分は重くなる。
 
 私が逃げ出した現実で、どこかの誰かは楽しく前向きに生きているという事実を突きつけられる度、私自身の弱さに向き合わされてしまうような感覚に苛まれるからだ。
 
 だけど、最近になって少しだけ私の心に変化が生じた。
 前向きな手紙なんて見たくはないという前提は変わらないものの、どうしておばの家にここまで手紙が届くのだろうという疑問ががむくりと湧き上がって来たのだ。
 流石に二か月も連続してしまえば、手紙が怪しいというか何かがあると勘ぐるしかない。
 
「しょうがない、か」
 
 私の腰は重く、動きは緩慢ではあるが、少しずつおばさんの家の掃除に手を加え始めることにした。部屋の中に、もしかしたら手紙が届く理由が隠されているかもしれないと判断したからだ。
 
 そもそも私は、おばさんについて何も知らない。
 
 おばさんについて知っていることと言えば、朗らかな性格で、人に優しくて、でもどこか抜けたところもあって、着飾ることをしない態度に接しているこちらまで自然体でいられるような雰囲気を持っているということだ。と言っても、親戚同士で集まった時くらいしか会わなかったから、それ以上のことは知らないというのが正直なところだ。
 
 だから、おばさんが生活したこの場所を捜索することで、少しでもおばさんのことを知りたい。
 
 まさか本来任された使命を全うすることになるとは思いもしなかった。何かと理由をつけて、一人での時間を満喫しようと思っていたのに。
 
「……でも、どっちにしろ潮時だったかな」
 
 一応というか、私はこの家を整理するという指示をお父さんから受けてやって来ている。もし何もしていないことがバレたら――。
 
「うぅ、怖っ」
 
 怒られる未来を想像したら、自然と体の奥底から震えが走った。今のメンタルで怒られたら、私の心が持たない。
 
 この部屋で過ごせる残り期間も、三か月。気付けば半分も使い切ってしまっている。意外と大きいおばさんの部屋を、今の弱った私の心身の状態で一人で整理整頓するとなれば、そろそろ動き出すにはちょうどいいのかもしれない。
 
 だから、どちらにせよ私はこの家を片付けるために行動しなければならない。
 
 もし急におばさんが戻って来てもいいように、もしくはおばさんに不幸があってもすぐにこの家を引き継げるように。
 
 ***
 
 何もないはずの田舎の家での生活は、窮屈で鬱屈で退屈になるかと思いきや、存外楽しめるものへと変わって来た。
 
 掃除をしていると少しばかり心が晴れていく。あれだけ散らかっていた部屋を、私の手で綺麗に出来たと思えば、達成感に満たされる。
 ここに来た当初からは考えられない変化を、心身共に私は感じていた。
 
 だけど、私を変えてくれた一番の要因は、何と言っても、この場所の風変わりな家主によるものだといっても過言ではないだろう。
 
「まなみちゃん」
 
 心の中で考えていると、その人物から私の名前が呼ばれて、ハッとした。
 
 意識を現実に戻すと、物腰柔らかそうで線の細いおばさんが、私を見ていた。
 
「そろそろ小鳥がやって来る時間だから、エサの準備を手伝ってもらっていいかな?」
「うん、もちろん」
 
 私はおばさんの指示に従って、慣れた手つきで鳥のエサを皿へと流し込んだ。
 
 そして、まるでタイミングを見計らったかのように小鳥がやって来ると、私が用意したばかりのエサを美味しそうにエサをついばんでいく。その何気ない一挙手一投足に、私の心はまた洗われる。ふとおばさんの方を見ると、おばさんも優し気な表情でこちらを見守っていた。
 
 不思議だ。最初は、鳥のことを睡眠を妨げるような煩わしい存在としてしか見ていなかったのに、いつの間にか私の見方は変わっている。
 ううん、鳥に関してだけじゃない。家主であるおばさんが戻って来てから、この家全体に活気が戻り、その影響が私にまで及び始めた。
 
 家主のいない部屋をまるで自分の部屋のように嗜んでいた私だったけど、部屋に戻って来たおばさんは、私を厄介者として接することなく受け入れてくれた。
 
「おばさんって、本当に物好きだよね」
 
 日課である朝のエサやりを終えて、二人で食卓を囲んでいる時、私はつい口に出していた。おばさんは心当たりがないのか、困ったような苦笑を浮かべながら、「物好きなのかなぁ」と首を傾げる。
 
 私は思い切り大きく首を縦に振ってから、
 
「鳥に毎日エサ与えるだけでも物好きなのに、私みたいに暗い奴を家に置くなんて、正直かなりの変わり者だからね」
 
 おばさんは私とは正反対の明朗な声で笑った。今は慣れたものの、接していた当時は正直眩しすぎてきつかった。
 
「あはは。まぁ、それは放っておけない顔をしていたからさ。もし受け入れなかったら、私はずっと後悔するところだったよ」
 
 おばさんは年齢よりも遥かに若い表情で、笑顔を浮かべた。その笑顔には裏表もなく、一切の悪感情がないことが窺えた。
 打算もないことが接していて分かるから、今の精神状態でも他人であるおばさんと一つ屋根の下で暮らすことが出来ている。
 
 ここで過ごすようになってから、いったいどれくらいの時間が経っただろう。都会で過ごしていた時間を思い出すことに苦労してしまうくらい、多くの時間を過ごしている。
 初めてここに来た時は、私の心は沈んでいた。私の趣味でもあり生き甲斐でもあった動画投稿サイトで、見事に裏切られてしまったからだ。
 
 しかし、この田舎町で過ごす内にだいぶ癒されて来た。
 
 もしここに辿り着かなかったことを想像すると、私はゾッとする。いまもガラクタのように壊れ続けたままだっただろう。
 
 だからこそ――、
 
「ねぇ、何か恩返ししたいんだけど」
 
 朝ご飯を食べ終わると、ずっと心に秘めていたことを口にした。
 だけど、おばさんは私の提案を一笑に付すだけだった。
 
「いらないよ。見返りを求めてやった訳じゃない。私がしたいからしただけさ」
 
 おばさんの答えを、私は予想していた。接していくうちに、おばさんの人柄をハッキリと分かっていたからだ。
 
「でも、それじゃ――」
「――分かってると思うけど、私は多分そう長くないと思うんだ」
 
 私の言葉を遮ったおばさんの表情は、先ほどの明るい表情が嘘のようにぎこちない表情へと変わっていた。
 私が来た時、おばさんはこの家にいなかった。その時、病院で検査をしていたと話していた。
 
 おばさんの話を深く掘り下げたら、悲しみに暮れてしまうことは分かっていた。
 
「この場所はどうするの?」
 
 だから私は、おばさん本人のことではないけれど、おばさんに関する単純な疑問を問いかけた。
 
「ここは残すつもりだよ。自然豊かな場所に家があるって素敵じゃないか。誰でも自由に休めるような休憩所みたいに出来たら楽しそうだよね」
 
 いつも鳥が訪れる天井に近い窓を見上げながら、おばさんが答えた。
 
 どうしたら人が喜んでくれるか、どうしたら人が元気になってくれるか――自分がいなくなった後でさえも人のことを考えるのは、おばさんらしかった。
 
 他人のために生きることは、少しだけ過去の私を彷彿とさせたけれど、私とおばさんは根本的に違う。私は悪意に打ち勝てず、途中で投げ出した人間だ。一緒にしてはいけない。
 
「……そしたら私はどうすれば」
 
 遠くない未来、またおばさんがいなくなったら、私は一人になる。そんな時、この安らげる場所にさえ私がいられなくなったら、この世界でどうやって生きればいいのか。
 
 また裏切られ傷付けられる世界に戻るのは、嫌だ。
 
「もう君なら飛び立てるよ」
 
 だけど、私の内心とは裏腹に、おばさんは真っ直ぐに言った。
 
 本当だろうか。確かに最初におばさんと出会った、あの薄暗い私と比べたら、私は変わった。けれどそれは、この家にいてこのおばさんの前だから、自分らしくいられるだけだ。居心地の良いここを離れたら、私はまたガラクタのように潰れてしまうに違いない。
 
 そんな私の胸中を察しているかのように、おばさんがいつものように朗らかな笑みを更に濃くした。病魔に冒されて自分が一番辛いはずなのに、どうしてそこまで人に対して優しくいられるのだろう。
 
「つらくなったら戻ってきていいんだよ。私はずっと応援しているからね、愛実ちゃん」
 
 ***
 
 居心地がよく、私を守ってくれる場所から飛び立って、結局は古巣に戻ってきてしまった。
 
 おばさんは優しいから「私がいなくても、ずっとここにいていいんだよ」と言ってくれたけど、そのままではダメだと思った。
 
 正直おばさんと一緒にいるのは、楽だ。一生この幸せな場所にいられたら、どれほど喜ばしいことだろうと思う。きっと私は苦労することなく、楽に生活を送ることが出来る。
 だけど、それはおばさんを裏切っていることになる。無償の愛を受けるだけ受けて、左から右に流すような真似はしたくなかった。
 
 居心地のいい場所を巣立ち、都内に戻った私は色々と考えた。私に何が出来るだろう。あの場所で手に入れたものを活かすために何をしたらいいのだろう。結果、私には動画しかないという結論に辿り着いた。
 
 人を前にすると過度に緊張する――くせに、誰かが見てないと、それはそれで寂しくなる。何も出来ない天邪鬼な私に出来る、唯一のことだった。
 
 それに、散々な目に遭いながらも、配信を通して誰かの言葉に耳を傾けてお悩み相談をする時間は楽しいことの方が多かったことを思い出した。
 昔使っていて少しだけ休止させていたアカウントを復活させて、私は久し振りに配信を繋げた。また誹謗中傷を受けるのではないかという不安と、私なんかを求めてくれる人に何を伝えようという期待。感情はごちゃまぜだった。
 
 だけど、結果は。
 
「ミミさん、今日もありがとう!」
 
 ミミとは、耳を傾けるような人になりたいという思いと、私の本名である愛実から取ったアカウント名『Ms.IMI』の略称だ。本来の読み方はマナミだけど、アイミと読んだ方が良い名前になると思ったら、自然と今のアカウント名が浮かんだ。略称も可愛いし、我ながら気に入っている。だから、復帰してからも続けて同じ名前を使うことにした。
 
 少しの間配信を休んでいたけれど、再開するやミミに届けられた言葉は、ただただ肯定的な言葉だけだった。あれだけの騒動があったのに、まるで何もなかったように、私を受け入れてくれている。
 
「復活してから、人が変わったようだよね」
「前も親身に相談に乗ってくれたけど、今はもっと距離感が近い気がする」
「根本的に明るくなったっていうか、一皮むけた感じ?」
 
 嬉しいコメントが、私の元に何通も何通も届いた。
 
 自覚としては、私自身に変わったつもりはなかった。だから変わったとすれば、あの場所のおかげだ。
 
 温かな陽光が降り注ぐ場所で、見ず知らずの私を大きな器量で温かく受け入れてくれたおばさんと誰よりも近くで触れている内に、私の心は甦った。
 
 生きているだけで愛おしさを感じるような想いを、おばさんからも、また毎朝欠かすことなく訪れる鳥からも抱くようになった。
 そして、その思いは再び配信をするようになってからも強くなった。
 
 優しい人もいる。
 厳しい人もいる。
 合う人もいる。
 合わない人もいる。
 色んな人がいる。
 だからこそ、愛おしい。
 
 改めて分かった。こんな当たり前のことも、あの部屋で過ごさなければ、自分にしか目を向けずに今も苦しんで生きていただろう。
 
 あの場所は、ガラクタになって何も感じることなく冷たい時間を過ごすしかなかった私に、再び命を落とし込んでくれた。
 
「……私、飛び立ててるよ」
 
 おばさんが言ってくれたとおりだった。
 また一人で飛び立つようになった私を見て、おばさんはなんて言ってくれるのだろうかと、ふと疑問に思った。でも、その答えはすぐに察した。自分のことのように喜んでくれるおばさんのしわくちゃになった笑顔が、まるで今もあの場所で対面しているかのように、ハッキリと思い浮かんだからだ。
 
 あのおばさんは、全くの赤の他人である私を、まるで本当の家族のように温かく迎えてくれた。生気を失ってガラクタのような人生を歩むしかなかった私に、優しく力強い言葉を何度も投げかけ、心に染みさせてくれた。
 
 唐突に今の私を直接見せたくなった。「ここまで出来たのも、あなたのおかげです」と言って、「よく頑張ったね」と一緒に喜んで欲しかった。
 
「ううん」
 
 自分の考えを否定する。多分喜んでくれるだろうけど、あの物好きなおばさんに心の底から喜んでもらえることは、きっと他にある。
 
 じゃあ、おばさんが本当に喜んでくれることは何なのだろう。
 
「――ぁ」
 
 そこで一つ、空から羽根が舞い落ちるようにふんわりとアイディアが浮かんだ。
 
 キッカケはおばさんの一言、「誰でも自由に休めるような休憩所みたいに出来たら楽しそうだよね」。
 
 生きることは苦労の連続だ。声に出せないけれど、私みたいに辛い想いをしている人は大勢いる。
 
 もしも今いる場所からどうしようもなく逃げ出したくなって、逃げ出した先で、あの場所に辿り着いたなら。
 そこで自分を再起させられる助けが私に出来るなら。
 
「もし私に手紙を書いてくれるなら、誰が読んでも勇気を貰えるような内容にしてほしいな」
 
 動画の終わりに、このような言葉を結ぶようになった。
 
 そして、私を通じて誰かに向けた肯定的なメッセージが届くと、私はあの場所に手紙を郵送した。
 
 今あの場所がどのように運用されているかは分からない。もしかしたら、おばさんの夢は叶わずに、廃屋と化しているかもしれない。
 でも、それでも私は届けたかった。
 
 真っ直ぐ、綺麗な言葉を。
 優しく、心が癒えるような言葉を。
 何よりも、この世界で頑張っているのはあなた一人じゃないという確かなつながりを。
 
 私のように疲れて迷い込んで、あの田舎の離れにある家に辿り着いた人が、もしも一人でいるのなら届けたい。
 
 そして、その言葉を受け取った人が、再起出来るくらいに力を取り戻してくれたなら、おばさんも喜んでくれるだろう。
 それがきっと、あの場所に導かれて復活して、『Ms.IMI』として活動する使命だ――。
 
 
 ――手紙を読む行為が楽しみになったこと。
 
 ここ最近で私に起こった数ある変化のうちの一つだ。
 
 その他に変われたことを例に挙げるならば、目が覚めることに抵抗がなくなったこともある。むしろ、朝を待ち遠しく思いながら眠りにつける日だってあった。惰眠を貪るしかなかった私からしたら、大きな変化だといっても過言ではない。
 
 それも全ては、前向きな言葉だけで綴られた手紙のおかげだ。
 
 無条件に褒め称えている数々の言葉に触れていく内、私の心は燃え上った。私個人に向けた手紙ではないことは分かっているけれど、あえて宛名が載っていないおかげで、自分ごとのように受け止めることが出来た。
 
 不特定多数の言葉に傷つけられて来たけど、こうして不特定多数の言葉に癒された。
 
 自分でも不思議だった。
 ほんの些細なことだけれど、自分で自分の行動を決めたからかもしれない。そこから意識が変わり、捉え方が変わり、運命が変わった。
 
「……なんて大袈裟かな」
 
 私が来る前よりも綺麗になった部屋を見て、独り言を呟く。
 
「手紙についてもおばさんについても、結局分からないままだったな」
 
 家の掃除をしたけれど、当初の目的は叶わなかった。
 おばさんが何を思ってこの場所で暮らしていたのか、またどうして宛名のない手紙が届くようになったのか、今もなお謎なままだ。
 
 だけど、それでいいと思った。
 
 この場所にある全てが、おばさんのことを証明しているように思えた。至るところで、おばさんの人の好さが顕在している。
 
「そろそろ準備しないと」
 
 天井近くの窓から降り注ぐ陽光を浴びながら、私はルーティンと化した行動を始めた。朝の訪れを告げる鳥にエサを与えることだ。
 
 家の掃除をしている内に、鳥のエサがしまってある場所を見つけた。試しにエサを出してみると、今までは天井付近を飛び回っていただけだった鳥が、エサの場所まで降り立ってくれた。「やっとやる気になったか」と言わんばかりに一声鳴くと、愛らしい仕草でエサを啄み始めた。
 私の行動を見てくれて認めてくれるような気がして、胸がじんとなった。
 
 煩わしいと思っていた鳥に対して愛着を持てるようになったこともまた、大きな変化のうちの一つだ。
 
 この場所に来なければ、私は今もなお心を燻らせたまま、ガラクタのように生きていた。
 まだ完全に身も心も復活したわけではないけれど、あとは時間の問題にさえ思える。
 
「今日はこれくらいかな」
 
 昨日よりも少しだけ多めにいれると、私はエサを入れる手を止め、窓に目を向けた。
 
 来ると分かっていても、いつ来てくれるのだろうと待ちわびるほどになっている。
 
 そして、今日も鳥がエサを求めてここへ来た。生を燃やすエネルギーを蓄えるため、この場所にやって来た。
 エサを食べ終えた鳥は、私が何を思っているか知らないような素振りで、窓の外から飛び立って行く。
 
「うん、きっと大丈夫だ」
 
 私はあの鳥のように、また外の世界へと巣立っていける。そう確信を抱いた。
 
<――終わり>

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