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若松氏による神谷の「いきがいについて」

「『生きがい』を失っている人を見出し、そして慰めるのは「生きがい」を失い、再び発見した人である」

と神谷は言う。一般的に「苦しい思いをした人は苦しみの渦中にある人を理解できる」というが、そのとき、意味として感じとれるのは、同じ経験をした者同士の分かり合いというものである。上の神谷の言葉はさらにもう一段上の何かをふんわりと包含しているように思う。
私は自分の経験や、自分が負った病を恥じることこそあれ、それが誰かの役に立つなどとは思えなかった。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」この言葉が大嫌いだった。父が死んだことが何かの役に立つなどありえない、父が「何かの役に立つ」ために絶望の死を遂げたなどと考えることは耐えられない。そんな気持ちでいっぱいだった私は、悪意なきクリスチャンがこの言葉を私に語ったとき、激怒したものだった。今は、あのときの自分を、抱きしめてやりたい。そして、「神の益」を、神谷が言う意味で、受け入れていいと思っている。今なら、本当の意味で、人の悲しみを受け止める器になる、その資格取得に向けてエントリーしてもいいのかもしれないとに思う。もし、いつかそのような器になれる日が来たら、それを「美」というのかもしれない。

自分は無用な人間だと思っている人に、あなたが必要だということができたら。私たちにできるのは、何かを与えることではなく、その人を求めることである。弱い人と共に、場を作っていくことである。

そして、信じる者は救われる、そうでないものは裁かれる、という教義は、確かに聖書の言葉と一致しているけれど、聖書は全体を通してもう少し深くものを語っていて、斧で断ち切るように救われた人・救われていない人を分断するのではない、なにか余白というか、膨らみというかを持っているのではないか、と感じている。

先日見たNHKの100分de名著新約聖書4で、若松英輔氏が良きサマリヤ人を解説していた。サマリヤ人は、半分異邦人のような人。その人が体現した愛の方を、イエスは認めている。ずっと差別されてきたサマリヤ人だからこそ、相手がどんな人であれ、痛めつけられた人を見過ごすことはなかったのではないか。若松氏は、人が考えた信仰心と、良心とでは、良心の方が神の道に近いと言っているのではないか、と語っていた。
そのような見方は、人生の事象を表面だけで受け止めるのではなく、実はもっと彫りや陰影のある人生というものを、本来あるあり方でとらえようとすることと、似ているように思う。

美しさについて
私は以前から、短調の曲こそ、美しいと思っていた。悲しいのに美しいとは、いったい何だろう。本当の感動を呼ぶものは、涙を伴う、それはなぜだろう、と。
しかし、神谷を読んで少しわかってきた。
悲しいとき、ともに悲しむ人がいたら、それは温りになる。それは慈しみであり、愛おしみである。美しいと書いて、かなしいと読むこともある。本当の美は、悲しみのその先にある。悲しみの経験は、悲痛であると同時に、哀隣、情愛、美の経験であり、さらに愁傷の経験でもある。かなしみは、生きがいを導く鍵である。

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