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問いに対する答え それは問いの価値

今日は、2月末に見た、
私にとっては衝撃的な講演会について
記録を書こうと思います。
たまたま見つけた動画配信です。

衝撃というか・・・
長年の私の苦悶に対する
意味的解答をもらった気がする。
それを長い間、欲していた。
でもそれは、今じゃないと
私には理解できなかったんだと思います。

実は私は教会と一定の距離を置いています。
奏楽はしてるけど、それだけ、
みたいな。

私にとって衝撃的な出来事が起こって以来、
私は神さまとトラブっているからです。
どうしてこんなことになるんだ!?
という怒りと絶望、期待外れが混ざった
どうしようもない気持ちで
ついに心身がおかしくなりました。
いくつかストレス性の病気にもなって、
今も薬が手放せません。

教会とトラブったわけじゃないのですけど、
教会に行けば神がどうの信じるのがどうのって
話になるでしょ。
それが苦痛すぎて、もう無理でした。

教会側では、
黙って私を待っていてくれています。
10年弱になると思います。

そして昨夜、
ちょっと変わった夢を見ました。
教会の牧師さんが現れて、
私の髪に触れ、
さらに三つ編みに結うというものです。
牧師さんは男性ですが、
このシーンに男女の関係のイメージはありません。
私はびっくりしたけど
嫌な気持ちにはなっていませんでした。

現実で、私が一方的にですが
ずっとピリピリしてきたのに
髪に触らせてOKというのは
私の中の大きな変化を感じさせます。

そんな夢に背中を押されて、
1ヶ月以上前に見て衝撃を受けた
動画のアウトプットを
今日こそしようと思いました。

動画は若松英輔氏の講演と
その後の対談で構成されています。
若松氏を私はずっと尊敬し、
本も何冊か読んでいます。

では、ここからです。

ボンフェッファーは
「信じるとは、
 確信ではなく問いが生まれること」
と語ったのだそうです。

私が抱いた「なぜだ」という思い、
これは、
私が信じているからこそ
湧いたものってことになります。

私は怒りの感情と共に
自分への不甲斐なさも感じていたのね。
ただ普通に福音信じていない自分が
信仰者のアウトローみたいに思えて。

でも、どうやらこれでよいらし。
だって、「信じるとは、確信ではなく問い」
なのだから。
イエスに対するより強い探求、問いが生じるのだ、と。

聖書はカチンコチンに固まった法律ではなく、
生きているもので、
さらに豊かになるもの。
その時生まれるのは確信ではなく問い。

「しかし、このことは、
『目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
人の心に思い浮かんだことがないもの』を、
神は、神を愛する者たちに備えてくださった」
第一コリント2:9

これがすなわち問い。
その問いは苦しい、だから呻く。

私は
「聖書に書いてあることは
 真実の一部でしかない、
 他にも深遠な神の意図がある」
と感じました。

「知」は人を区別するだけ、
ただそれだけのもの。
問いにおいて、人は等しい。

それは神の叡智と言っても良い。
叡智に近づくためには、
知ではなく「不知」の道を歩むこと。
見たことも聞いたことも心に浮かんだこともない道。

その一部が、私の経験と言っていいようだ。

不可解に対する耐性を持ちたい。
ここに神を見ないと、やってらんない。
問いにとどまらない、
厳かさがある。
そういう人は神につながる通路となりえる。
結局、人は「探究者」だってこと。
痛みのある人は、神に至る道の通路。
痛みこそ、魂の場所。

問いに対する答えは
そんなに大切じゃないらしい。

問いに対する答えが必要だ、
という思い込みがあるけど、
むしろ答えを知っている人を警戒したい。
なぜなら、そう思っていると、
それ以上探求しなくなるから。
相手を納得させることに専念しちゃうから。
問いを持っている人は、相手の問を聞く。
問いを宿した人間のみ、厳かさが顕現する。
尊厳とは、等しさ。

よりよく、より優れたものを求めることを
そろそろ卒業したい。
龍※のように問いに苦しみながら生きる。
如何に苦しんでいるのかがその人の尊さになる。
成し遂げることじゃない。
存在の重みを知れ。

その人の問いに会った時、
この人に初めて会った気がする。
問いの片鱗に触れた時、実は自分に出会う。
問いの答えをたくさん集めたら、
生活はよくなっても、人生はよくならない。

どう生きるかを考えているうちは、
まだ始まっていない。
問いを持った人の歴史を重んずる。
それ自体がその人自身。
解決しても次の問題がすぐに表れる。
自分に対する問が深まる、これが大事なこと。

これをあえて数字にするなら、
役に立つことや答えを求める人生ってのが
100だとすると、
それを卒業したいのね。
いい具合に卒業して50に減ずるんじゃないな、
と思った。
まず、問いに追い詰められて、
困り果てて、0になる。
順調に困る。

そしてその後に、問いの意味や価値に目覚めて
また立ち上がる。
その時、また100になるんじゃなしに、
違うベクトルで、5とか8とかぐらいになってみる。
それが今の私かも知れない。

これさ、楽器の演奏と通じるよ。
ピアノとハノンでガチガチに鍛えた指から
まず無駄な力をぬきぬきに抜いて。
それから、古典鍵盤楽器を弾くに足るだけの
最小限の重力を、
ピアノとは違った角度の指で
鍵盤に加える、みたいな。

先日読んだ言葉。

結局夏は来るのです。
だが夏は永遠が何の憂いもなく、
静かに広々と眼前に横たわっているかのように待つ
辛抱強い者にのみ来るのです。
~ライナー・マリア・リルケ

そうなんだよね。
夏は来るけど、いつ来るかってのはわからないし
待たなきゃならないものなんだね。

※「究」という字:穴の中に龍がうごめいている。
九=龍。
龍=たましいのアイコン

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