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尹 雄大『つながり過ぎないでいい——非定型発達の生存戦略』

☆mediopos2753  2022.6.1

他者とのコミュニケーションに悩んだ著者は
自分の感情をどう言葉で表現すればいいか
長く悩んできたという

そして「普通」のひとが「定型発達」であるのに対し
じぶんは「非定型発達」なのだとし
むしろ「人とうまくしゃべれてしまっていることが
そもそも奇妙なのではないか」
そんな問いから本書ははじまっている
とても重要な問いだ

「定型発達」をしている人が
「しゃべれてしまっている」とき
「相手のことがわかるはずなのに」という期待と
対(つい)になっていいるのだが
「非定型発達」の人にとっては
「しゃべれてしまっている」という状態こそが謎なのだ

疑問をもつことなく「しゃべれてしまってい」る人は
おそらく自分のアイデンティティについても
とくに疑問をもって生きてはいない

そのほうが世の中を生きやすく
ひととつながりながら
協調して生きていけるだろうけれど
そうすることははたして他ならないじぶんを
生きていることになるのだろうか

わたしたちは「絶え間なく「普通」についての教育を受け」
「学校やメディアに限らず、
普通だと信じてやまない価値に伺いを立て、
その通りに行動することによって
「普通」は自律的に学習され続けている」が
そうした在り方は「同化」でしかない

「普通」できていると思いこんでいるコミュニケーションは
じっさいのところできていないものだと思っていたほうがいい

共感できるとか
相手の気持ちに寄り添えるとか
相手の感情に向き合うといような
現代のおきまりの「普通」の価値観を信じないほうがいい

同じ日本語で話しているからといって
相手を理解して対話できていると思わないほうがいい

そもそもじぶんの話している日本語は
じぶんのなかにある感覚以前の「内語」から
不可能性に近い仕方で翻訳されたものなのだから

他者と関わるコミュニケーションで重要なのは
「共感すらできないところにある自身の中にいる
「知らない自分」との出会い」にほかならない

そうした他者としての自分との出会いをつうじてこそ
みずからを育てていくこともでき
そのことを通じ
ベタな思い込みとしての共感やつながりではなく
「共感や意味の理解のその先に向けた言葉」を
見出す可能性も開かれ得る

■尹 雄大
 『つながり過ぎないでいい——非定型発達の生存戦略』
 (亜紀書房 2022/5)

(「1章 それぞれのタイムラインを生きるしかない——定型発達という呪縛」より)

「いろんな背景を持つ人の話を聞く体験を経て知ったのは、「人とうまくしゃべれてしまっていることがそもそも奇妙なのではないか」という疑いを多くの人は持っていないということだった。「話せるはずなのに、そうはできていないのはなぜなのか?」という問いの立て方をしている。しかも「しゃべれてしまっている」が「相手のことがわかるはずなのに」という期待と対になっている。これは本当に不思議に感じる。僕にとっては「しゃべれてしまっている」という状態こそがいまなお謎だからだ。

 一般的には「人というのは、なんとなく話せるようになるし、なんとなく話す中でなんとなく相手のことがわかるものだ」という理解がされている。それも一応わかる。だから「なんとなくできるようになる」といった成長曲線を描くパターンを「定型発達」と呼ぶのもうなずける。

 ただし、その肝心の「なんとなく」がわからないし、僕みたいに「この歳になればこれができる」といったマイルストーンを達成できない人がいるのも確かだ。「一般的に人間とはそういうものだ」の視点から見ると、定型発達できない側を「定型発達障害」と呼んで差し支えないと考えるかもしれない。でも、それは〈非「定型発達」〉な状態なのだと声を大にして言いたい。」

「定型発達者の文化では「できる」がひどく尊重されているけれど、そこで見逃されているのが、「できない」という必然性だ。できないにはできないなりの理由が、ストーリーがある。その必然性は定型発達できてしまう文化圏の人からは訳がわからないものに見える。」

「この現実と呼ばれる世界を生きる中で、僕らは知らず知らずのうちにこういうモデルを想定しているはずだ。

  自己という主体があり、それは分割されていない個人である。
  個人が生きて活動することで世界が認識される。また世界に働きかけることで物事が実現する。

 「うまく」を前提にした生き方の基礎には、「人というのは統合されているはずだ」という人間観がある。だけど、まだらの世界は、そうではない。自分がまとまったひとつの主体とは到底思えない出来事がたくさんあった。」

「感情教育の目的はバラバラを統合するという、世間で出回っている人間観を獲得するためのタイムラインに乗るところになかった。統合をまぬかれ、まとまらないままでいるために僕は自らに教育を施していったのだと思う。

 僕たちは絶え間なく「普通」についての教育を受けている。学校やメディアに限らず、普通だと信じてやまない価値に伺いを立て、その通りに行動することによって「普通」は自律的に学習され続けている。世間がまだらに見える視点からすれば。その教育システムは「同化」でしかない。そう直感している。日常の中で、僕がひとつの主体に回収され、統合されるのは堪え難い苦痛であり、何より狂気なくしてありないと思っている。」

(「2章 胚胎期間という冗長な生き延び方」より)

「人がコミュニケーションという他者との関わりの中で望むものは、共感すらできないところにある自身の中にいる「知らない自分」との出会いだ。そこに自身の可能性を感じる。それは本人が口にする言葉の群れには姿を容易に見せない。自覚しないところに潜んでいる。言葉を介した対話だけに注目していては、そこまで深く潜ることはできない。共感は共感できなさに手を伸ばすためにある。共感それ自体に意味があるわけではない。

 本当に話さなくてはならない、聞かれなくてはならない話は、安易な共感を拒むだろう。どこかで僕らは微笑みやうなずきに出会うたびに、「何もわかられていない」という思いをたくましくしているのではないか。共感や意味の理解のその先に向けた言葉というものがあるはずだ。」

「共感し、気持ちに寄り添う。傾聴し、感情と向き合う。この時代が要求する感性や同世代の価値観をあまり共有しないほうがいい。あえて遅れようと作為的にするわけではないが、共有を図ろうと迫ってくる早さを遅くするくらいの距離を保つ方が自分を保てるのではないか。長らくぼーっと過ごしてきた僕はそう思う。」

(「4章 自律と自立を手にするための学習」より)

「弱さを排除し、強さを獲得する。そうした道のりを進んでいくのが人格形成であり。「自己同一性」(アイデンティティ)を得る過程でもあると考えられている。そういう人間像をこしらえている意味が時折わからなくなる。実体にそぐわない使い勝手の悪い発想だと思えて仕方ないからだ。

 僕らはなぜか自分の身体がひとつの存在で、それを通して物事を理解し、感情に働きかける、といった一連の関わり方を疑わなかったりする。

(・・・)

 アイデンティティという「自意識が作り上げた像」をどうして信頼するようになったのだろう。自意識が発達し過ぎて、自分の内面に対してすら直観が働かなくなったせいなのか。「自分の思う自分が自分なのだ」と確認するような仕草は、たとえて言えば鏡に映った姿を自分だとするようなものだ。」

「一般的には鏡に映った自分が自分だと確かめる行為が当たり前だし、その感性を標準として生きている。だから鏡像をもとにした他者評価を踏まえない言動は「利己的」と呼ばれ、「主観でしかものを言わない」と非難され、協調性を求められる。

(・・・)

 僕らは自分の直観と体感覚と体験を顧みず、他者の考えを無闇に信頼し、自分を否定する行為を重ねた分だけ明晰さが向上すると勘違いしがちだ。いわば自分を拒み、他者に従うやり方に長けている。それを止めるには、とりあえず自分を認め、他人を受け入れない態度が欠かせないだろう。

(・・・)

 他人を拒むことに気まずさを覚えるとしたら、その気まずい感情と感覚をよく観ないといけない。そもそも拒むこと、NOと宣告することがよくないという先入観をどこで身につけたのだろう。拒否は単なる拒否であって善いも悪いもないはずだ。だけど、そこに善し悪しをつけているとしたら、何が原因だろう。」

(「5章 絶望を冗長化させる」より)

「ある意味で、滑らかに話せる人というのは、独自の言葉でしゃべる試みとは無縁だから可能だとも言える。没個性を恐れないタフさを備えているかもしれない。それに同時代の文法をやすやすと口にするという呪いにかかっていることすらいとわない。あるいは気づけない鈍さがあるからこそ言葉が社会と現実をなだらかにつないでいるのかもしれない。

 みんなと同じという独自性のなさは、自分という存在の凡庸さを思わせる。けれども、そのように自らを卑小だと思ってしまうことそのものが、社会が期待するような傷つき方や憤懣を育む文法のなせる技だとしたらどうだろう。当たり負けしない地力はこういうときにこそ必要なのだ。」

「こもって意味にならない音。心の中に確かにモヤモヤとしたものがあると感じてはいても、はっきりと名指すことのできない、いわば感覚以前の何か。それが曖昧模糊としたものを「内語」と呼んでもいいのかもしれない。

(・・・)

 僕はこのもつれた音を内語として見出した。そしれ、これこそが第一言語ではないかと思う。日本社会に生きていると第一言語が日本語になるし、それを誰も疑わない。しかも第二言語を用いて話す機会も少ない上に、なまじ日本語が互いにしゃべれるものだから言葉は通じるはずだし、「わかってくれるはず」という期待を相手に持ってしまいがちだ。

 その幻想を背景にして、共感をやたらと重んじる文化が育成されたのだと思う。あるいは「普通は————」といった話法をすらすらと用いたり、他人と自分とは異なる存在ではないく、みんな同じなのだともたれかかることを良しとする常識を疑わないようになる。

 だが、内語が第一言語になると、それを日本語という第二言語に翻訳する工程が生じる。必然的に個人と言語の間に緊張が走る。それまで日本語を自然にしゃべれていると感じていたのは、日本語への馴れ馴れしさがそう思わせていただけで、日本語の側からすれば違うのかもしれないとわかってくるだろう。つまり日本語が他者として姿をはっきりと示してくる。

 内語と日本語の距離が明らかになると、これまでの僕は内語を翻訳せずにそのまま出そうとしていたのだと気づく。そうではなく、まず日本語に内語の意図をわかってもらう必要がある。」

「幼い頃から感情と自分のあいだに距離があった。だからなのか。四十一歳から始めた感情教育を経て知ったのは、感情の向こう側を見るのは容易だということだった。自分を襲う悲しみについても「悲しい」という状態に埋没しないで、感情の出所を見つめることができた。

(・・・)

 直観的にわかっていたのは、たとえば「僕の悲しみ」というとき、そこに「の」という所有格があることだった。

(・・・)

 内語に接近する上では、こうした感覚と感情と言葉の隔たりをわきまえているかどうかは、かなり重要なはずだ。感覚と感情と言葉の根元にある他者としての内語は、どれだけ密になろうとしてもすれ違うしかない存在だ。内語は僕らの内にいる絶対的な孤独の化身だ。

 絶対的孤独であるのだから、そもそもが他人と共有できない言語だ。内語の外にある日本語は他人と分かち合えるだろう。けれども、特に胚胎期間を必要とする人たちの一人ひとりの抱える膨大な内語は、誰にも理解できないかもしれない孤独な言語なのだ。」

「教えられた言葉ではなく、身の内から湧いてくる自身の言葉や思いは何か。世間に目は向けても、そこに注意することを怠ってきた。educate(教育する)には「自分を育て上げる」という意味がある。自律的に学ばないと、もう立ちゆかない世界が始まっている。それを胸に刻みつけたい。」

「この島に住んでいると感じるのは、絶え間なく「普通」についての教育を受け続けていることだ。脱稿やメディアに限らず、僕らが普通だと信じてやまない価値を参照し、その通りに行動することによって「普通」は無自覚に学習され続けている。その教育の結果、もたらされるのは「同化」だ。」

「教えられた通りの考えを身につけ、それによって善し悪しでジャッジする。それを普通の感性と言うのであれば、いずれは新しい出来事が起きても、従来の考えの内に収めることに満足を覚えるだろう。だが、それとは別の道がある。教えられたことをもとにして独自に学び、自らを育てていく。そこで初めて自立に向けた歩みが始める。」

【目次】

■はじめに
■1章 それぞれのタイムラインを生きるしかない——定型発達という呪縛
■2章 胚胎期間という冗長な生き延び方
■3章 社会なしに生きられないが、社会だけでは生きるに値しない
■4章 自律と自立を手にするための学習
■5章 絶望を冗長化させる
■あとがき

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