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高橋巖『神秘学講義』/『神秘学序説』/エルンスト・ブロッホ『希望の原理』

☆mediopos-3075  2023.4.19

高橋巖『神秘学講義』が
その第五章に「ユングと神秘学」の章が加えられ
角川ソフィア文庫に収められている

新たに加えられた章がユングについての章であるように
高橋巌の神秘学に関する視点では
シュタイナーとユングが相互補完的である
(ブラヴァツキーをはじめその他の重要な視点もある)

シュタイナーの生前には
ユングはまだその分析心理学を
十全には展開していなかったこともあり
シュタイナーはその視点を正当に評価し得てはいない

おそらく現代において神秘学的観点について
理解を深めようとするとき
その両者の視点を踏まえながら
それぞれの視点に欠けているところを補完する
ということは不可欠なのではないかと思われる

その点において高橋巌という
シュタイナー研究者を持ちえたことは幸いだが
残念なことに多くのシュタイナーの受容者において
それはおそらく効果的に働いていないのではないか
今回の文庫化がそのきっかけになれば

さて高橋巌がシュタイナーの思想に出会ったのは一九五八年
その後しばらくしてユングの思想にも出会ったそうだが
『神秘学序説』には「それを私の筆を通して
紹介することができるようになるまでには、
少なくとも一〇年はかかるだろうと考えたが、
もうやがて二〇年近くになる。」と記されている
『神秘学序説』が刊行されたのは一九七五年のことである

そしてそれから今年で四八年
(シュタイナーに出会ってからは六五年)
ぼくはその視点の全てに同意できているのではないけれど
高橋巌なくしてシュタイナーには出会えなかっただろう
その長い営為に対して畏敬と感謝をもたないわけにはいかない

ぼく個人でいえば手元にあるのが
『神秘学講義』の第五版(昭和五八年)で
そのころからようやくシュタイナーに近づきはじめ
今年で四三年になるところだが
いまだ初心者の域を出てはいないのだが
最近になってようやく・・・というところだろうか

さて『神秘学講義』の文庫化されたのを機に
その解説を担当されている若松英輔が
「ヨアキム主義」についても解説している
高橋巖『神秘学序説』にふれていたので
ほんとうにひさしぶりに当該のところを読み直してみた

「ヨアキム主義」については
『神秘学講義』の第一章でもふれられているが
一二世紀末のイタリアでシトー派の修道院長だった
ヨアキム・ディ・フィオレの
父の時代・子の時代・聖霊の時代という視点である

父の時代は旧約の
「神が人間に守るべきおきてを課して、これこれをしてはいけない、
とか、これこれをすべきだと命じ」た時代

子の時代は「紀元前七、八世紀ぐらいから、
紀元一三、一四世紀、ある場合には二〇世紀まで続いている時代」で
「恩寵と教化」の時代

そして第三の時代が「聖霊の時代」
「「聖霊」を、各人が自分の内部に、それぞれの仕方で、
見出すことのできる」「愛と自由」の時代である
まさに現代の課題だといえる

それに関してエルンスト・ブロッホの「希望の原理」なども
『神秘学序説』で示唆されているが長くなるので引用部分を参照のこと

さて現代は「愛と自由」の時代だというものの
たとえばコロナ禍やウクライナ戦争に関する態度などを見るだけでも
日本人の多くはいまだ「父の時代」か
よくいって「子の時代」のはじめを生きているようだ

「聖霊の時代」への誘いという意味でも
『神秘学講義』の文庫化は意味深い

■高橋巖『神秘学講義』
(角川ソフィア文庫 KADOKAWA 2023/3)
■高橋巖『神秘学講義』(角川書店 昭和五五年三月)
■高橋巖『神秘学序説』(イザラ書房 1975/11)
■エルンスト・ブロッホ(山下肇他訳)
 『希望の原理 第三巻』(白水社 1982/10)

(高橋巖『神秘学講義』(角川ソフィア文庫)〜高橋巖「『神秘学講義』文庫版によせて」より)

「一九八〇年に角川選書として出版された『神秘学講義』がこの度新たに「ユングと神秘学」の章を加えて、角川ソフィア文庫として出版されることになりました。
 初版からもう四〇年以上も経った今、あらためてこの本を読んで、とても新鮮な印象を受けました。本書に一貫して語られている問題が私にとっても少しも古くはなく、逆にまったく、今書かれるべき内容だと思えました。」

「現代を生きる人たちは、小学校時代から、いつも試験を受ける度に連数で評価され、区別されて生きています。(・・・)
 優劣の評価を超えた社会生活はないでしょうか。
 数の論理は明白で、一見平等らしく見えますが、数では見えないものがあります。
 本書の立場は基本的にこの問題を抱えているので、第一章でレグレッション(退行)の問題を取り上げています。
「ユングにとって退行とは、決して生物が無生物にかえりたいという一種の涅槃願望なのではなく、この世の減じるが決してまだ人間が生きるにふさわしい現実になっていないことのあらわれなのです」(三五頁)
 この本の内容は、現代の精神科学の観点から「神秘学」の思想を読み解く試みですが、現代のアカデミズムの立場から神秘学(霊学)の立場に橋を架ける試みでもありました。当時、毎年夏になるとスイスのアスコナで開催されたエラノス会議に参加して、この立場の学者たちと交流をもつことで新しい方法論を模索していました。」

(高橋巖『神秘学講義』(角川ソフィア文庫)〜「第一章 現実世界から超現実世界へ」より)

「夢の意識を持った古代人の心は、外的環境に対しても内的情動に対しても、現代人よりはるかに開かれており、したがって感受性も敏感だったと考えられます。しかしそのかわり、論理的な思考の力はまだ十分に発達しておらず、したがってエジプトの『死者の書』やホメロスなどが示している心象風景は、夢の世界に近いイマジネーションの連続から成り立っています。この夢の世界が知的にだんだん明るくなり、感情も独立して発達してくるのが、ヨーロッパでは、古代ギリシアのソクラテス前派から、ソクラテス、プラトンの時代であって、このころ人間の意識の中にまったく新しい理性の力が目覚めてくるわけです。
 この夢の意識の時代のことを、一二世紀末にイタリアでシトー派の修道院長をしていたヨアキム・ディ・フィオレというキリスト教神秘主義者がはじめて取り上げました。彼は自分の神秘体験に基づく歴史哲学的な観点から、これを父の時代と名づけました。

 父の時代というのは、旧約の時代のことでもあります。
 旧約の時代は、旧約聖書に描かれているように、神が人間に守るべきおきてを課して、これこれをしてはいけない、とか、これこれをすべきだと命じました。
(・・・)
 これに対して、第二に、理性が目覚めた時代が来ます。つまり、紀元前七、八世紀ぐらいから、紀元一三、一四世紀、ある場合には二〇世紀まで続いている時代です。ルドルフ・シュタイナーのような偉大な神秘学者も、この転換期を一五世紀からと考えています。つまり古代ギリシアのアルカイック期からローマ=アレクサンドリア時代、キリスト教時代を通過して近世初頭にいたる約二千年期が、ヨアキムの言う子の時代にあたります。子の時代、つまり新約の時代は、恩寵と教化というのでしょうか。すぐに人を罰したりするのではなく、むしろ罪を許すことが、人間を教化するには大切なのであり、同時にひとりひとりが本当に納得できるように、こうしてはいけない、なぜならこういうことをしたらこうなるから、というように、ひとりひとりの人間の内面的な生活にまで立ち入って指導することを心がける、そういう時代が「子の時代」なのだ、とヨアキムは言っているのです。

 第三の時代というのは霊的意識が個人の内部だけでも体験できる時代です。ヨアキムは、第二の「この時代」が更に進化していくと、「子」なる神ではなくて、霊的な意識そのもの、つまり「聖霊」を、各人が自分の内部に、それぞれの仕方で、見出すことのできる時代が来る、と言っているのです。聖霊の時代、第三の時代になりますと、恩寵と教化ではなくて、愛と自由が支配する時代になります。その時にはもはやキリスト教の教会も必要ではないし、聖書も必要ではない。(・・・)かつてのようには決定的な必要性をもたなくなるというのです。」

(高橋巖『神秘学講義』(角川ソフィア文庫)〜「第五章 ユングと神秘学」より)

「「見る行為」というのは、イニシエーションに他なりませんが、(・・・)イニシエーションにはアポロン的、とディオニュソス的、の二つがあります・
 両方とも、見ること、なにが光なのかではなくて、見えるようになるための方法を問題にしています。
 そこでユングは、見えるアポロン的秘儀を問題にしたか、ディオニュソス的秘儀を問題にしたか、を考えてみますと。明かに彼は、危険を承知の上で、ディオニュソス的な道をとりました。(・・・)彼は危険であることを背負いこむことに、ヨーロッパ的な生きがいを見出そうとしていたのです。あらゆる罪の問題を、自分の中に全部取り込み、自分が破滅しても破滅しなくてもかまわないから、ともかく見る行為に徹することで、現代のヨーロッパ的精神を生きようとして、最初からディオニュソス的な秘儀に向かったのです。
 ところがユングはこのような「方法」について、あまり言おうとはしていません。ゲルハルト・ヴェーアの『ユングとルドルフ・シュタイナー』という本を読んでも、ゲルハルト・ヴェーアはルドルフ・シュタイナー派の人ですから、ルドルフ・シュタイナーとユングを区別して、ルドルフ・シュタイナーは、イニシエーションの方法をはっきり提示したが、ユングは提示していない、それからルドルフ・シュタイナーは意識の問題に徹しているのに対して、ユングは無意識の世界にはいっていき、明確な意識化の作用を怠っているとか、どういう感想が述べられています。けれどもユングをよく読むと、そうは言えなくなってきます。」

(高橋巖『神秘学講義』(角川ソフィア文庫)〜若松英輔「解説」より)

「最後に本書の第一章で述べられている「ヨアキム主義」にふれておきたい。
 (・・・)
 聖霊の時代になると、かつての権威————教団や教典や儀式————が、絶対的な意味を持たなくなる。それが否定されるのではなく、もう一つの道が開けてくるという。
 (・・・)
 「ひとりひとりが自分の内部に眼に見えぬ祭壇を作ること」「自分の内部から必要な行動の指針」が湧出する基盤を育むこと、ここに神秘学の重要な実践がある。神秘学において「知る」ことは「生きる」ことの前段階でしかない。むしろ、「知る」だけで終わることの危険を神秘学は問い続けてやまない。神秘学において「生きる」とは単に自己実現するに終わらない。それはこれまで見たように他者への愛に至らねばならないのである。
 ヨアキム、あるいはヨアキム主義をめぐっては著者の『神秘学序説』に詳しい。この本こそ、本書をもっともよく補完する著作でもある。」

(高橋巖『神秘学序説』〜「ヨアキム主義の系譜1」より)

「自由と個体主義を基本的立場とする近代神秘学は、一二世紀の末、イタリアで聖ジョヴァンニ・ディ・フィオレ修道院を創設したヨアキム・ディ・フィオレが一一九〇年から九五年にかけてもった終末論的神秘体験をその出発点としてもっていると私は考えている。なぜそう考えるか、そしてそれと古代、中世の神秘学、更にはわが国の密教教学や古神道の霊学とはどこに根本的相違があるのかについて、ここで若干の考察をしておきたい。
 興味あることには、私が明かにしたいと思っている相違点について、現代マルクス主義の有力な一方向を代表するエルンスト・ブロッホとアドルノが、いわば神秘学の対極に位置する彼らの立場から、極めて透徹した考察を様々の機会に行っている。」

「かつて一九四〇年頃に反神秘学の論文さえ発表したアドルノは、この時点で、シュタイナーにさえ言及しつつ、基本的立場におけるいわば「反対の一致」を実現させている。事実、アドルノがここで「ひとつの次元」といったのは、「現実のさなまでは不可能なものと相場の決まっている可能性」、つまり正にわれわれの神秘学の問題である。「総じて人間の尊厳をもった思想すべてがそうであるように、ブロッホの思想も、失敗に終わるかもしれぬという際のところで、無気味な秘教(オカルト)的なものに対する共感すれすれのところで成功しているのだ」、とアドルノははっきり書いている。」

「アドルノは現代のアカデミズムの大勢である文献批判、文献紹介中心の文献学的方法の対極的立場を打ち出しているが、このアドルノの態度もヨハネ的であるといえよう。アドルノもまたロゴス的認識の上にソフィア的認識をおき、フィロ=ロギーではなく、文字通りのフィロ=ソフィーの立場に立っていることを、つまりヨハネの弟子のひとりであることを表明したのである。端的にいえば、ヨハネは歴史上の事実としてのイエスとその生涯を言挙げすること以上に、キリストが地上を去った後、「霊」として各個人の中に生きている聖霊の働きそのものの中に、————それがキリストの名とむすびつこうと否とにかかわらず————来るべきキリスト教の本質を見たのである。

(・・・)

 エルンスト・ブロッホは『希望の原理』第五部五三章「宗教的秘密への増大する人間介入」の中で評論している。キリスト再来への期待の中で、ヨハネはその時の来るまで、謎めいた「パラクレート」(助け主=聖霊)をキリストの代わりに指定した。しかし同時にこのことをもって、イエスは、再来と最後の審判と王国(御国)とを保証はしたが、しかしその保証は、再来までのすべての期間を含んではいないことをも示している。

(・・・)

 今や真理の霊をうけた人間は、悪と虚偽に充ちた地上で、ひたすらその地上の真を認識することをもって祈りにかえる。(・・・)ヨアキムの言葉でいえば、「奉仕」と「信仰」の時である「子の時代」が去り、「聖霊の時代」が来た現代においては、「自由」と「認識」とに徹することが、本来の霊的生活に通じるのである。」

「キリストの本性は今後パラクレートとして現れる。新約聖書のイエスではなくして、固有名詞をもたずに個々の人間の内部に働き掛けるこの霊(精神)の力こそが、本当の「約束の言葉」を語り、新しい「王国」への必然的な世の転換を教えるのである。
 「このパラクレート概念から中世の千年期説、特にヨアキム・ディ・フィオレと彼の第三王国説とへの結びつきを見出すことは困難ではない」(『希望の原理』全集版五巻一五〇二頁)」

(高橋巖『神秘学序説』〜「ヨアキム主義の系譜2」より)

「ヨアキム的意味で霊的に選ばれているとは、そのイメージが決して社会道徳的に欠点のないことではない。「————人間が純潔と完全とを追求すると、また世の悪から追い出されて道徳の最高への志向を告白すると、自分が努力したものとは反対の結果に達することがしなしば起きる。すなわち人間的なものの代わりに非人間的なものに達する。・・・・・・道徳的逆理は、罪びとこそ神の国に到達しいる第一の人々であるということにある。・・・・・・修道僧かたぎが世界と人間に対してもっている侮蔑と人間への清教徒的判断はこういう角度からきている。(ベルジャーエフ『神と人間の実存的弁証法』小池辰雄約一四五頁)

 誰も救い手のいない極北の地点で、パラクレートははじめてわれわれに意識される。だからそれまでは一見もっとも救いがたい闇の中にいる、もしくは進んで闇の中の「真」を見つめる人間が、実はこの「助け主」にもっとも近づいているのであり、一見外的権威の中に自己を捧げ、救われている人間、「父の時代」や「子の時代」にふさわしい生き方をしている人間が、「第三の時代」の「救い主」からかえって遠いところにいる。なぜなら個的存在を徹底させ、シュタイナーのいう「自我の秘儀」に参入することなしには、自由の王国の市民とはなりえないからである。

 ブロッホの偉大な点は、彼がこのような観点をマルクス主義的観点と同じ程度に所有し、ヨアキム主義とマルクス主義という、観点の「両極性」による「高まり(シュタイゲルング)」というゲーテ的態度に徹しているところにある。

(・・・)

 ブロッホは(・・・)、マルクス主義によってとぎすまされた階級意識を、「科学性」とは異なる原理、つまり「希望の原理」によって「真理の霊」にまで転化させる作業をも進める。われわれにとって切実な終末論は、階級意識をも含めて、われわれの所有する意識の荒廃によって生じた。それは階級意識によって救済されることをではなく、あらゆる意識の、それ故階級意識そのものの変革を求めている。

(・・・)

 マルクーゼがマルクス主義的フロイト主義的観点から主張することのできた唯一の「自由の王国」における精神内容は「遊び」という理念であったが、これはすでにシラーが『美的教育論』の中で、古代以来の神秘学的観点(彼には『ユリウスの神智学』という初期の論文がある)とヨアキム的三段階説の立場とから、魂にではなく、霊にとって本来的な、自由なる態度として、自然必然性と合理的必然性との間に立つ美的態度として、要求したものであった。霊的存在としての個体の絶対性をわれわれがたがいに相手に認め合った上で、階級意識からも、一切のイデオロギーからも自由になりえた地点で、はじめてユートピアの精神にふさわしい共同体のための前提が作られる。」

(高橋巖『神秘学序説』〜「あとがき」より)

「一九五八年にはじめてシュタイナーの思想と出会ったとき、私は非常に感動しながらも、それを私の筆を通して紹介することができるようになるまでには、少なくとも一〇年はかかるだろうと考えたが、もうやがて二〇年近くになる。それでも「シュタイナーの霊的認識の行法」について書いたときには、内容の重みの前に、筆のおののきをおさえることができなかった。」

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