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山本 冴里[編]『複数の言語で生きて死ぬ』

☆mediopos2746  2022.9.2

地球には7000以上の言語があり
消滅の危機にさらされている言語は約3000

死に絶えてしまう言語は多く
ある言語の最後の話者が亡くなれば
その言語がつくりだしていた世界は消えてしまい
「豊かな生態系を持つ泉が枯れる」

チャミクロ語の話者は語っている
「チャミクロ語で夢を見ても
 誰にも
 その夢を話せない」

しかしまた一方では
新たな言語も生まれてくる

言語そのものが変化したり
ある言語の周縁部で
他の言語の影響を受けたりすることで
新たな言語が生まれてくるのである

母語だけを話すひともいれば
複数の言語を使いわけながら
言語の境界で生きていく人もいる

支配-被支配の関係で
母語がありながら支配者の言語を
使わざるをえないこともあれば
一つの言語に囚われず
あえて複数の言語環境のなかを
生きていく人たちもいる

本書の編者は
タイトルの『複数の言語で生きて死ぬ』に
「言語や文化の境界を超えるというよりも
境界そのものにとどまり、境界を生き、
死んでいく人々をイメージした」という

その「境界」は
「異質なもの同士が交錯し交ざり合い、溶けあい、
新たな何かが生みだされる(かもしれな)い場」である

まさにそれは数多くの言語が人とともに生き
さまざまな関係性をつくりだしながら
創造されていく生態系にほかならない

しかし複数の言語を使えるようになることが
重要だというのではない
一人ひとりはひとつの生態系であり
その独自性を生きるためには
どんなかたちにせよ
「自分のことば」を持つということが
だれにとってもとても大切なことだ

その意味では
言語はひとの数だけあるということもできる
そして私がいなくなるとき
その言語もまた消えてしまうことになる

けれど「自分のことば」がたしかにあるからこそ
他のひとのことばとたしかな関係をつくることができ
その「境界」において新たなものも生まれてくるのだ

さてぼくという生態系は
「自分のことば」をたしかに持ちえているだろうか
そう問いつづけることを忘れないようにしたい

■山本 冴里[編]
 『複数の言語で生きて死ぬ』
 (くろしお出版 2022/4)

(「第1章 夢を話せないー言語の数が減るということ」より)

「世界にはどれほどの言語が存在するのか。統一された見解はないが、おそらくはたいていの人が想像するよりはずっと多い。Ethnologueによると、二〇一九年一〇月はじめの時点で、背カイン言語は七一一一を数えるという。けれどこの数は確定的なものではなく、一年前の同じ時期には一四少なかったし、さらにその前の年には、それより五つ多かった。
 では、なぜ言語の数が変化するのだろうか。すぐに思いつく答えは、「地球上には、まだ探検しつくされていない部分があるから」というものかもしれない。確かに、言語多様性の点できわめて豊かだと言われるニューギニアやアマゾンの森林には、いまだ言語学者によって記録されていない言語が使われている可能性がある。しかし、それは言語の数を特定できない理由のごく一部にすぎないし、もしもそれだけなら、人類学者や言語学者による探求が進むにつれて言語の数は増える一方だろう。けれどEthnologueの数値(二〇一七−二〇一八)に見るように、その数は減りもする。

リトアニアの首都にあるヴィリニュス大学には、大学内の美術室に、死んでしまった言語の墓が設置してある。永遠の眠りについているのは、リトアニア語近縁の、かつては存在していた言語たちだ。そう、言語は死ぬ。そして、生物に絶滅危惧種のレッドリストがあるように、死に絶えてしまうことが懸念される言語のリストも存在する。ユネスコは、二〇一〇年時点で二四七三にのぼる危機言語を示している(Moseley 2010)。ハワイ大学とGoogleが共同で作成している危機言語のリソースウェブサイトEndangered Language Projectは、消滅の危機にさらされている言語のリストに、約三〇〇〇もの名を挙げる。ある言語の最後の話者であること。まだ生きているときにも、死んだあとに残る世界を想像させる人、その国や地域の経済状況にはきっと何の影響もないけれど、彼/彼女が地上から旅立つときには、連綿と続きその魂に結びついた、ひとつの世界が消える。豊かな生態系を持つ泉が枯れる。

チャミクロ語で夢を見ても
 誰にも
 その夢を話せない
 わたしのほかに
 チャミクロ語を話す者がいないから
 最後の一人になるのは寂しいことだ
 (チャミクロ語の話者 ナタリア・サンガマ)」

(「第2章 夜のパピヨンー言語の数が増えるということ」より)

「言語の数は、名づけと区分の結果として、減ることもあれば、増えることもある。しかし、言語そのものが変化する場合もある。言語そのものの変化によって、新たな言語が生まれることも考えられる。」

「コミュニケーションの必要や欲望があっても、その意図をただひとつのこれという語で、相手に対して正確に表せる表現を持たないとき、そうしたとき人は、手持ちのリソースを組み合わせて意図を伝える。まるで、専門の工具は持たないけれど、手持ちの道具、材料と創意工夫で、十分に使える椅子も棚も作りあげてしまう日曜大工みたいに。大規模な言語接触が行われたときにも、個々人のひそやかなレベルであっても。だから言語とは絶えまなく変化する渦のようなものだ、と思う。大きさも強さも変動する。周縁部でほかの渦にぶつかればまたその影響も受け、時にそれは新たな渦を生む——新たな言語を創る。」

(「終章 複数の言語で生き死にするということ―人間性の回復をめざして」より)

「伊那谷の老婆のエピソードというのは、信州伊那谷に暮らす老婆がいて、その老婆は、外国語を勉強したこともなければ、海外はおろか生涯、自分の小さな村を一歩も出ずにいる。いくら山の中だとはいえ、このようにどこにも行かないというのはちょっと信じがたいことではある。しかし、そこには常に数人の外国人が訪れ、一か月、二か月と滞在していく。炊事や風呂はすべて薪炊きで、老婆はほぼ一日中かまどの前に座って火の番をしている。そのかまどの横には、彼女の若い頃に読んだという岩浪文庫が山積みになっていて、火の勢いが弱くなると、そのページを破っては火にくべている。日が暮れると、村の老若男女が彼女の家にいろいろな食べ物をもってぼつぼつと集まってくる。長期滞在の外国人たちも一緒になって、焚火を囲んで好き勝手に話し込んでいる。
 こんな半分作り話のようなエピソードを聞いたのは、一九八〇年代の前半に長野県にある国立大学の教員養成学部に勤務していたときのことだ。(…)
 彼女は、日本語しか知らないし、それ以外の言語を習得した経験もなければ、たぶん習得したいとも思っていないだろう。しかし、彼女は、どんな言語圏の人をも受け入れ、日常の生活の中で、明確な存在感を持って他者と接している。この老婆のような生き方は、一見小さな村社会のなかで閉鎖的な生活に見えるけれども、実は、とても豊かなことばの生活を体現しているのではないかと思ったからだった。」

「伊那谷のエピソードには、人間一人ひとりの内的な複数性や重曹性を希求する人間性の回復と、生活の「真理」を想像する〈何か〉がある。一九八〇年代はじめのエピソードなので、当時六〇歳代から七〇歳代前半と思われる老婆はもはやこの世にはいないかもしれない。
 しかし、「自分のことば」を持つ、その人生、その生き方には、時代を超えて、わたしたちに訴えかけるものがある。他者を管理せず、他者から管理されない自由のなかで、ことばの活動によって一人ひとりを尊重すること、他者とともに生きる豊かさ、一人で火投げても生まれない創造を生み出すために、さまざまな仲間たちの知恵が集まり、それぞれのことばの活動によって、人は「この私」を語りだし、それが自己と他者の連携と協働をうながし、互いの関係世界を分けあう。
 このように考えると、複数のことばで生き死ぬことについて考え活動するということは、きわめて人間的な行為であると言えるだろう。この老婆の不思議な生と死が象徴的に表すように、傷ついた共生社会を人間的な行為によって回復に向かわせるために、わたしたちには何ができるのだろうか。」

【目次】及び各章の最初に記されている要点より

第1章 夢を話せないー言語の数が減るということ
(7000以上も数えられている言語の数が減る場合とは、鍵になるのは、支配-被支配の関係と、言語に冠された後光のようなものだ。言語の継承が途切れるとき、何が起こるのか)

第2章 夜のパピヨンー言語の数が増えるということ
(言語の数が増えるとは。名づけと区分の結果として増えるときもある。しかし、新たな言語が創られることで増える場合もある。なぜなら、人間は創造的だから。)

第3章 移民と戦争の記憶ーことばが海を渡る
(ブラジルに、ウズベキスタンに、日本に、パラオにと視点を移しながら、「複数のことばで隔てられ、つながってきた」家族の歴史と、より大きな人間集団の歴史をたどる。)

第4章 ペレヒルと言ってみろー「隔てる」ものとしてのことば
(「われわれの一員」と「排除と虐殺の対象」とを、外見からは判断できないとき、歴史上幾度も利用されてきたのは、何らかの言葉を発音させることだった。)

第5章 「あいだ」に、いるー言語の交差域への誘い
(強固な境界の「あいだ」を生きた人、「あいだ」を生きざるをえなかった人たちの物語が、そこに生きることへと私たちを誘う。)

第6章 彼を取り巻く世界は、ほとんど無に近いくらいに縮んでしまったーことばの断絶と孤独
(ことばを理解できず理解してもらえないことで、人はどんな状況に陥るのか。まわりと応答できるということが、存在として対等となりうることへの道を拓く。)

第7章 「伝わらない」不自由さと豊かさー複数の言語で生きるという現実
(複数の言語で生きる人々と暮らすなかで筆者の身体に蓄積された経験。「自由さ」と「不自由さ」が、「豊かさ」と「困難さ」が分かちがたく結びつく。)

第8章 内戦下、日本語とともに生きるーことばを学ぶ意味
(命の危険にさらされる内戦下のシリアで日本語を学び続ける女性へのインタビュー。「生き抜くための希望」、「自身の存在意義の証」としての日本語学習。)

第9章 「韓国語は忘れました」ー人にとって母語とは何か
(複数の言語を知り、学び、紡ぎながら生きる女性の人生。そこにあるのは「忘れさられた言語」、そして「歩み寄ることば」。既存の「母語」「外国語」の意味が問い直される。)

第10章 こうもりは裏切り者か?ー他者のことばを使う
(復言語能力を持つ人は、時に、鳥からも獣からも追われるこうもり(イソップ物語)と似た状況に追いこまれる。しかし、こうもりこそが希望となる状況もある。)

終章 複数の言語で生き死にするということ―人間性の回復をめざして
(「支配-被支配の関係」「集団から個へ」「対等と自由のための境界」といったキーワードで、本書全体をつなげる糸を通す。最終的に問われるのは、「他者とともにあるとはどういうことか」という問いだ。)

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