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鶴岡真弓 「ケルト渦巻」と「生命循環」/よみがえる深層(ユング心理学と生命循環: (ユング心理学研究 第14巻)

☆mediopos2730  2022.5.9

生も
死も
閉じてはいない

生と死は
対立しているのではなく
そのめぐりのなかで
創造的に循環している

円のように循環しているのではなく
螺旋構造のような中心を持つのでもなく
中心性を崩しながら展開していく

そのことを示唆してくれるのが
ケルトの渦巻文様である

ケルトの渦巻文様は
「回帰や再帰=リカージョン(recursion)」
の構造をもっている

マクロ(極大)の中にミクロ(極小)が
安定的に収まっている「入れ子状のヴィジョン」ではなく
「ミクロに入っていけばいくほど、マクロが開ける」
という無限に廻転するダロウ・スパイラル」である

つまりケルトの修道士たちは
宇宙が整然と存在しているような静的な宇宙観ではなく
自然や聖性やあらゆる存在を「成りつつある状態」で見る
発生論的な宇宙観をもっていた

9世紀のアイルランドの修道院で完成した
福音書写本『ケルズの書』には
キリスト教以前の異教の「組紐文様」が
神秘的なデザインの頭文字によって表現されているが
(シュタイナーもこの組紐文様に興味をもっていた)

そこで重要な頭文字「T」
(ラテン語の「TUNC」である「その時」)は
生と死の「あいだ(between)」の隔たりではなく
生と死の「間のもの(in-between)」を主題化している

ケルトの暦では大自然は「闇の季節」から
「光の季節」へと反転するととらえているが
生を生から死へと向かう直線としてではなく
「「死から始まって」、それが刻々「再生する」」
渦巻のような循環としてとらえている

闇の季節から暦をはじめるケルトのように
柳田國男は『日本の祭』において
「祭りは夜から始まる」と言っているが
「祭りは前日の真夜中から、夜の中の死者との出会いから、
その死への祈りから始まる」のだという

闇の深みから現れてくる「死者」を待ち
そこから生の祝祭ははじまっていき
また「死者」を送ってゆくという循環である

それはユングの示唆している曼荼羅的なスパイラルでも
ラカンのような構造的にとらえられた
メビウスとかクラインの壺といったロジックでなく

「無限に廻転するダロウ・スパイラル」のような
中心を崩しながらそのことで成っていくような
無限の循環があるとらえられる宇宙観がある

ケルトの修道士たちはおそらく
キリストの秘儀を認めながらも
それを直線的で中心をもった
静的なものとして捉えることを拒み
それを無限の循環としてとらえ
渦巻文様で表現しようとしたのだろう

■基調講演 鶴岡真弓 「ケルト渦巻」と「生命循環」————よみがえる深層
 討論————基調講演を受けて 指定討論者 河合俊雄・猪股剛
 (ユング心理学と生命循環: (ユング心理学研究 第14巻)
  日本ユング心理学会 編集 創元社 2022/4 所収)

(鶴岡真弓「「ケルト渦巻」と「生命循環」」〜「ケルト渦巻文様のダイナミズム」より)

「ケルトの自然崇拝を伝統とする文化が、独特の「渦巻文様」を創造したのは、今から2500年ほど前、大陸ヨーロッパのケルトの第二鉄器文明の「ラ・テーヌ」時代でした。(・・・)ここで「ラ・テーヌ様式」という渦巻文様のスタイル、剣や装身具などの金工のデザインが生まれ、今日のデザインにも多用されています。

 それは、キリスト教時代になっても途絶えず、中世のケルト系修道院では聖書の装飾写本にも表現され、アイルランドの最古級の福音書写本『ダロウの書』の「ダロウ・スパイラル」が典型的です。

 『ダロウの書』は680年頃に完成し、キリスト教受容(432年)の時代から2世紀後の聖書写本ですが、この頁には、キリスト教の教義に照らせるような図像はまったく見当たらず、ひたすら渦のミクロコスモスが展開しています。

 この「ダロウ・スパイラル」を典型として、ケルトの渦巻文様は、「回帰や再帰=リカージョン(recursion)」の構造をもっています。大きな渦巻の中に小さな渦巻があるという、入れ子状のヴィジョン、つまりマクロ(極大)の中にミクロ(極小)が安定的に収まっているのとは逆で、「ミクロに入っていけばいくほど、マクロが開ける」という、ミクロの決死圏のような表現です。同じサイズを繰り返すのではなく、スケールと次元を次々に変え、高速で反転する動性が起爆剤となって、無限に廻転するのが「ダロウ・スパイラル」です。

 言い換えれば、聖職者にしてアーティストであったケルトの修道士たちのヴィジョンは、静的な宇宙論(cosmology)=宇宙が整然と存在しているさま=「成った(完成した)状態(being」)」ではなく、あくまでも、自然や聖性やあらゆる存在を、「成りつつある状態(becoming)」で見ること、つまり、宇宙発生論(cosmogony)的に見つめているということができます。」

「構造的に、ケルト渦巻は、無限の「分裂」による「増殖」を起こし続ける「フラクタル図形」に近似していると言われます。フラクタル(fractal)の語源はラテン語で「フラクトゥス(fractus)」。これは「壊れた」の意で、すなわち「break(割れ、裂け目)」です。分裂しつつ、壊れつつ、相同系が増殖していく形。」

(鶴岡真弓「「ケルト渦巻」と「生命循環」」〜「『ケルズの書』の「T]の字に見るケルトの思想」より)

「劇的な「キリストの死と復活」は、9世紀のアイルランドの修道院で完成した福音書写本『ケルズの書』にも、文様として描かれました。中性のアイルランドの時空に生きた修道士たちは、キリスト教以前の異教の「組紐文様」を、神秘的なデザインの頭文字によって表現していました。

 『ケルズの書』の重要なこの頭文字は、キリストが磔刑に処せられる「その時」(ラテン語の「TUNC」)の「T」で、スパイラル状の動物の身体と、その内側のシュタイナーが興味をもった組紐文様で表現されています。

 動物、獅子の唇からは次々に別の生き物が生まれ出て、肢からも植物が生えてくるというなんとも幻想的な文字ですが、キリストの生涯で最も劇的な「磔刑」の「その時」とは、「死がもたらされる瞬間」なのではなく、その「死」がただちに「生」との交点(まさにクロス、十字)を創り出したのだという、修道士たちの祈りがこのデザインに託されたのではないかと思えます。

 今回の大会の題目にある「生と死の接点」とは、生と死の「あいだ(between)」の隔たりを主題化するものではなく、その間に新たに「生まれ出てくるもの」、すなわち、生と死の「間のもの(in-between)」
を主題化することであるのを、この頭文字は訴えています。」

「「対立物そのものではなく、対立物の間にある独特の創造的過程」というユングの『分析心理セミナー1925』の言葉も、私が今回ささやかですがテーマとさせていただきました、ケルトのトリスケル的な構造と通じており、また後ほどディスカッションで先生方に教えていただければと思います。」

(鶴岡真弓「「ケルト渦巻」と「生命循環」」〜「生き続けるケルトの循環思想」より)

「大自然が「闇の季節」から「光の季節」へと反転すると信じた「ケルトの暦」は、私たちにも大いなるヒントを与えてくれる生きる知恵になると思います。人生を直線的な線分としてイメージすると、それは両端が生と死という対立したものとして向き合っているようにした捉えられませんけれども、直線でなく「渦巻」として捉えてみる。そして、人生とは漫然と与えられた「(不確かな)生から始まる」のではなく、有限の生の証しである「死から始まって」、それが刻々「再生する」。それこそを、本当の「生」というのだ、と認識できる時、初めて人生は力強い「循環」になるのだと思えます。」

(基調講演を受けて「指定討論者 河合俊雄・猪股剛」〜「「死」から始まる再生」より)

「猪股/やはり死ぬことと生きることとは、実は相当近いことなのだろうなと、お話を伺っていて改めて思いました。
(・・・)
 柳田國男も『日本の祭』の中で「祭りは夜から始まる」とおそらく相当近いことを言っています。つまり、夜という「死」から始まるんですよね。現代では、例えば祇園祭なら山鉾巡行が祭りだと思っている人が多いですが、そうではなく、祭りは前日の真夜中から、夜の中の死者との出会いから、その死への祈りから始まる。死を感じるしかないような時間に籠もることを通して初めて、夜が明けて目に見える山鉾巡行のようなものが現れてくる。この籠もることに際して、生きている人間ができることは「待つ」ことくらいです。おそらく心理臨床でも、根本を問うと、僕らができることは、ただひたすら夜が明けるのをしっかりと籠もりながら待つことくらいでしょう。」

(基調講演を受けて「指定討論者 河合俊雄・猪股剛」〜「ケルト渦巻文様と中心性」より)

「河合/今日のお話にもありましたが、このユーロ=アジアの西の端と東の端で、意外につながっているというか、中心から外れていったものに古層が残っているというところが似ているのではないかと思います。

 ユング心理学に対しても、個人的にすごく惹かれるところと違和感があるところがありますが、例えば、渦巻文様と曼荼羅がどう違うかということを考えると、「中心性」だと思います。今日のお話の渦巻文様のような、繰り返してダイナミックに動き、回帰してはまた移っていくというのとは違って、ユング心理学ははっきりとした中心をもっている心理学だということを感じます。私はそこに違和感がありますので、今日のお話を伺っていて、曼荼羅よりもこちらのケルトの渦巻文様のほうが、自分の考える心の構造モデルにむしろ近いのではないかと思いました。それともつながってきますが、ユングがよく指摘しているのに「太陽の車輪」というのがあり、これも丸の中の十字です。「三つ巴」とこの「太陽の車輪」の十字はどう違うのか、ということをぜひお聞きしたいと思いました。

 また、心を渦巻として見ていくというのは、非常に面白いと思います。ユング心理学ではよく「人の心は直線ではない、スパイラルだ」と言うのですが、彼らの言う「スパイラル」は螺旋階段、つまり、ぐるぐると回って進歩していくものです。ですから、ケルトのダイナミックなスパイラルとは異なります。また、もう少し数学的、構造的にしてしまうと、ラカン(Lacan,J)のような、メビウスとかクラインの壺とか、ものすごくきれいなロジックになり、このような渦巻的なもののダイナミズムとはだいぶ違うものになってしまう。ですから、こういう渦巻文様は、ユング心理学における中心をもつ曼荼羅的なものや、ラカンのようなきれいなモデルとは違うダイナミズムをもっていて、非情に興味深く思いました。

 それから、祭りは夜から始まるとか、死や闇から始まる、という話がありましたが、「死」「再生」ということで日本の物語を考えてみると、例えば、河合隼雄は日本の昔話を分析して、「無に帰る」ということを強調していますが、「うぐいすの里」の話なども、渦巻やケルトの暦の循環というのは中心にしてしまわないし、もっとダイナミックなものがある、ということも感じました。そうすると、我々が心理療法で接している心のモデルを考えていく上で、このような渦巻の無限の動きというのは、とても参考になる示唆を与えてくれるように思います。」

「鶴岡/同じ廻転体の文様でも、ギリシャのものは判で押したような形で、逸脱しないスパイラルですが、ケルトの場合、形になっているものをむしろ崩そうとしていくフラクタルな構造で、仰せのとおり、その中心は暫時的に出現しても、次の瞬間にはどこかに巻き込まれ、また違うものになっていきますね。むしろケルトの修道士たちは(一神教のミッションの中にいながらも)、こうした中心性というものを崩していく作業を延々としていた、とも言えます。」

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